2019年3月23日土曜日

神武東征について(H31.03.22時点)

 第一代の天皇・神武天皇ですが、この名前は淡海三船がつけたものとされています。本当はカムヤマトイワレヒコ。神武天皇は日向(宮崎県)を出発してから大和を平定するまでの東征物語があり、何らかの史実を示していると思っていました。しかし案外そうでもないかも知れないという気がしてきました。各地域の王国が統一されていく中にあって、その由緒を記述することが目的であって、実際に移動したことは話として成立させるための背景に過ぎないということです。神武東征の移動して行く地域がヤマトの勢力によって統合されていくことを示しているように思われます。この話の時には対立していたキビも含まれています。従って七世紀後半の話になってきます。神武天皇は、畝傍のかしはら宮にて天下を治めた。ということ(*参考)ですが、これは藤原京をイメージしていると思われます。つまり神武天皇には天武天皇のイメージで記されています。そして対立した長髄《ながすね》彦が天智天皇のように思われます。また三炊屋媛《みかしきやひめ》が出てきますが、かしきやひめに似た名前です。どうして出てくるのかと言うことですが、この方は推古天皇です。私は推古天皇は持統天皇と思っているので、神武天皇の大和平定の話は壬申の乱をイメージして作られたものという気がしてきました。この東征軍の有力な武将に大伴氏の祖の道臣がいる(*参考)とのことで、日本書紀成立の時点では大伴氏もまだ有力であったということだと思います。
 神武東征から古い時代(三世紀~五世紀とか)を類推するのは問題であったということです。これまでの神武東征に関する投稿記事もおかしな事を言ってました。はずかしいですが、そのままにしておきます。(以前の神武東征
 言っていることが変わるのでそのうち見直ししないといけないとは思います。
*参考:直木孝次郎 古代を語る3
    神話と古事記・日本書紀、吉川弘文館発行
    二〇〇八年(平成二十)十二月十日 第一刷発行

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