これからの話は妄想といって良いかもしれません。しかし日本書記は歴史書ではなく、当時の政権の正当性を主張する文書であることをつい忘れてしまいます。
さて、神武東征ですが、神武天皇が九州からやってきて奈良にたどり着いたところから始まるということです。これが紀元前の神話になっています。
前の記事での670-690年の分布図を見ると関東の方からやってきたのであればおかしいといえますが、そうでないので、整合性はあります。ただ、670-690の分布図では東の方には広がっていないので神武東征はそれほど古い時代の話ではないように思われます。紀元前の話ではないということです。問題は別にあって670-690の分布図で北陸地方の方に領域が広がっている部分をどう考えるかです。神武東征のあと、広がっていったとは考えにくく、ヤマトタケルノミコトが北陸を征服したということが無いようなので、最初は北から奈良の方にやってきた。その後神武東征のグループが西からやってきた。ということになれば、前政権が北陸に以来するもので、それが越前からやってきた継体天皇の話とかになり、そのあとを西からのグループが引き継いだことになるのでしょうか。ただ正当性を主張するためには2番目にやってきたストーリー展開では、かっこわるくなるので、はるか古い昔に神武東征を入れたとなるのでしょうか。現在の歴史認識ではどうなっているのか勉強不足でわかりません。日本書記などを読んでおらず、もやもや度が増しますので今後の課題として打ち切りとします。
追記 H25.09.05
----- 神武東征近畿地方の経路について思うこと -----
九州から近畿地方に来ますが、最後の近畿地方で迷走してるように思います。
(神武東征の経路で検索すれば移動経路の図を見ることができます。)
この理由について無視されているか、あまり述べられていないようです。
日本書記が対外的な、特に中国の唐を意識して作られたことが重要です。
Wikipedeaの遣唐使を見れば、20回説の表示で次のようになってます。
1 舒明2年(630年)- 舒明4年(632年) 犬上御田鍬(大使)・薬師恵日
唐使高表仁来日、僧旻帰国
2 白雉4年(653年)- 白雉5年(654年)
吉士長丹(大使)・高田根麻呂(大使)・吉士駒(副使)・掃守小麻呂(副使) 道昭・定恵
第2船が往途で遭難
3 白雉5年(654年)- 斉明元年(655年)
高向玄理(押使)・河辺麻呂(大使)・薬師恵日(副使) 高向玄理は帰国せず唐で没
4 斉明5年(659年)- 斉明7年(661年)
坂合部石布(大使)・津守吉祥(副使) 伊吉博徳 2 第1船が往途で南海の島に漂着し、
坂合部石布が殺される
5 天智4年(665年)- 天智6年(667年)
(送唐客使)守大石・坂合部石積・吉士岐彌・吉士針間 唐使劉徳高を送る。唐使法聡来日
(6) 天智6年(667年)- 天智7年(668年)
(送唐客使)伊吉博徳 唐使法聡を送る。唐には行かず?
7 天智8年(669年) -不明 河内鯨(大使)
第5次から第7次は、百済駐留中の唐軍との交渉のためか
8 大宝2年(702年) -慶雲元年(704年)
粟田真人(執節使)・高橋笠間(大使)・坂合部大分(副使) 山上憶良・道慈
9 養老元年(717年)- 養老2年(718年)
多治比県守(押使)・大伴山守(大使)・藤原馬養(副使) 阿倍仲麻呂・吉備真備・玄昉・井真成
10 天平5年(733年)- 天平7年(735年)
多治比広成(大使)・中臣名代(副使) 平群広成・大伴古麻呂
帰路、第3船の平群広成は難破して崑崙国(チャンパ王国)に漂流。
天平11年(739年)10月27日に帰国。第4船、難破して帰らず
-以下省略-
古事記・日本書紀との関係です。
--日本書記
舎人親王らの撰で、養老4年(720年)に完成した。神代から持統天皇の時代までを扱う。漢文・編年体をとる。全三十巻。系図一巻が付属したが失われた。
--古事記
古事記(こじき、ふることふみ)は、日本最古の歴史書である。その序によれば、712年(和銅5年)に太朝臣安萬侶(おほのあそみやすまろ)(太安万侶とも表記)によって献上された。
遣唐使の第9回に古事記、10回の時に日本書紀を持って行ったのではないかと思います。未完成の状態であれば、第8回・9回かもしれません。当時は唐からの侵略も考えられていたはずです。神武東征の経路は、敵に侵攻経路を教えるものであってはなりません。そのため近畿地方に入り、迷走し、東征に苦労したことで日本への侵略は大変であることをアピールしているのではと思えます。
0 件のコメント:
コメントを投稿