2019年3月6日水曜日

旧唐書《くとうじょ》について

 最近手抜きになっていますが、ウィキペディアの旧唐書を見て書いています。
当初の呼び名は単に『唐書』だったが、『新唐書』が編纂されてからは『旧唐書』と呼ばれるようになった。 資料的価値は『新唐書』よりも高いと言われる。とのこと。
『旧唐書』東夷伝の中には、日本列島について「倭国伝」と「日本国伝」の2つが並立しており、「巻199上 列傳第149上 東夷[3]」には「日本國者 倭國之別種也 以其國在日邊 故以日本爲名 或曰 倭國自惡其名不雅 改爲日本 或云 日本舊小國 併倭國之地[4]」とあり、倭国が国号を日本に改めたか、もともと小国であった日本が倭国の地を併合したと記述されている。
とあります。旧唐書が出てきたのは、「偽りの日本古代史、井上亘著、同成社」を図書館から借りてきて見たからです。第一章の十七条憲法と聖徳太子ところはどうかなと読み続けて、第二章も良くわからないまま第三章になったところで、六五九年遣唐使が帰ることを中国で止められ拘束されたことから始まります。六六三年に白村江の戦いがあり、先の本では新唐書にも同様のことが記述されているようです。旧唐書に戻り、「日本國者 倭國之別種也」では日本と倭国は別のものであると読め、「日本舊小國 併倭國之地」は日本はもともと小国であって倭国を併合したと読めるとあります。あえて日本の使者は唐との戦いを倭国に押しつけ、日本とは異なるとしたからであろうということで、日本と倭が同一だと知っているのにおかしいということです。しかしこれは事実のように思われます。遣隋使の倭国(キビの勢力)が日本(ヤマトの勢力)との対立に敗れたことを言っているのだと思われます。倭国と日本が対立関係にあった中で白村江の戦いやその後の戦後処理など時間関係がシビアになってきます。これは豊臣秀吉が朝鮮出兵を行ったときも悠長にはしてなくてすばやく準備されていて月単位で考えないといけないのと同じと思われます。この本もそうですが、倭国と日本は同一であるという認識の人が多いと思われます(昔の私もそうでしたが)。別物であるとする人は少数派ですが、これは皇国史観が成り立たないということが、そのまま顧みられること無く現在に到ったということかも知れません。

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