東大寺が何度も焼けたことを考えると、寺の火災と戦乱との関係が強い気がします。法隆寺ですが斑鳩寺として、日本書紀天智八年冬に火災があったと記され、天智九年夏四月の癸卯朔《きぼうのさく》の壬申(三十日)に、夜明けに法隆寺に火災が起こった。一屋も残らず焼失した。大雨が降って雷が鳴った。五月に童謡《わざうた》があり、ー内容は省略ー。六月に、村の中で亀を捕らえた。背に申の文字が書かれ、上は黄色で下は黒色で、長さは六寸ばかりであった。と日本書紀➂新編日本古典文学全集4,小学館発行にあります。明らかに法隆寺の火災は壬申の乱のために記述されています。火災の時期は正確にこの時期なのか、わからないと思っていましたが、東野治之氏の説があり確定しているようです。
氏の「聖徳太子、本当の姿を求めて」の中に、「上宮聖徳太子伝補補闕記」の中で法隆寺火災後の混乱があり、法隆寺の賤民たちが自分たちの身分について異論を唱えたので、寺の事務をあずかる人物が、その裁定をしなければならなくなった。寺が焼けていたために、裁定は妙教寺というよその寺で行なわれたという。なぜ裁定が必要となったかというと、天智九年に庚午年籍の作成が求められ、寺院も対応しなくてはならなかった。ということです。安田仮説の元々も庚午年籍などの戸籍の記述は正しいというところから始まっていますので、くつがえることはありません。
焼失前の伽藍は若草伽藍で、四天王寺と同様な一直線上の配置です。再建後は法隆寺式という金堂・塔が左右に並んだ配置に変わっています。しかし、同時代の薬師寺と比較すると法隆寺西院伽藍は古い時代の建築様式に見えるそうです。想像ですが、キビの勢力のものであれば、後の時代の復興運動の中で、元の状態に戻そうとこだわった部分があったのかもしれません。難波宮跡と法隆寺の直線距離が21.6kmです。伝飛鳥飛鳥板蓋宮と法隆寺の間は16.2kmで、法隆寺の位置はほぼ中間といえます。キビの勢力(この辺は、キビ+ナニワの勢力のイメージになってます。まだまだ変なところああります。)とヤマトの勢力の距離を考えるとこの地が中立的な立場にあったのか、つまり法隆寺の位置が聖太子神話の設定に意味あるのか(「和をもって尊しとなす」とか両者が歩み寄るイメージ)、ただただ妄想するしかありません。
日本書紀は、火災も壬申の乱の文脈の中での記述なので、何かしらの武力衝突で焼失したとかあったかもしれません。疑ってくると何を信じて良いのかわかりませんが、庚午年籍は確かであろうということからは、外れていません。
注:斑鳩寺は法隆寺のことで、日本書紀では天智天皇のところに重複記事が多く出てくると前述「聖徳太子」に書いてあります。それに従っています。
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