2019年3月19日火曜日

空海と高野山

 なぜ空海は、高野山の地を選んだのかということです。ブラタモリ、本年三月十六日の徳島特集で、「鳴門が四国の玄関口になるとは?」というお題で放送されていました。この番組を見ていての思いつきです。番組では鳴門の渦潮があるのにどうして四国に来たかということで、子鳴門海峡という鳴門海峡の内側の波が静かなところを通ったとの話です。鳴門市に撫養町というところがあり、この名のついた撫養街道をお遍路さんは行くそうです。この街道は中央構造線断層の上にあるとのことでした。地図で見るとすぐ南側に吉野川が流れています。吉野と言えば奈良県の吉野を思います。奈良県にも吉野川があり、こう呼ばれるのは奈良県だけのようで水系名として紀ノ川のようです。こちらも日本構造線に沿って流れているように見えてきます。お互いに関係あるのかということですがわかりません。吉野川という名は各地にあります。山の名前で○○富士というのが各地にあるように、奈良を中心にした時に、この地の吉野川が各地に広がったこともあるかもしれないと感じました。それだけの話ですが、交通路の本題に戻ります。
 現在も徳島と和歌山がフェリーで結ばれていますが、古代にもこのルートがあったと思います。そこを空海も通ったことが考えられます。地図であればわかりやすいのでopenstreeetmapを切り取りました。和歌山県と徳島県、間に淡路島があり、黄色のラインは四国から奈良へ向かう道筋を想像したものです。図を見てもらえればわかりますが、赤丸の高野山の位置がそれほどの変な場所ではないと思われます。最澄も地元の比叡山に延暦寺を開きますが、山岳地帯に開くことがこの時代の考えであれば、空海の高野山も地元の四国ではないですが、まあまあ地元に近い山岳地域と考えられます。


徳島と和歌山とかの関係(古代ではありませんが)
 四国紀ノ川沿いの撫養街道《むやかいどう》がありますが、地図を見ていて、勝瑞城館跡を見つけました。ここは室町時代に阿波守護細川氏によって守護所が置かれたところです。その後、三好氏も引き継ぎ本拠とします。もともと三好市は紀ノ川の上流にあり、地名から見て、この地に進出してきたものと思われます。三好政権と言われた三好長慶の年譜(三好長慶四百五十年遠忌紀年論文集、三好長慶、今谷明・天野忠幸編、宮帯出版社)を見ると、享禄四年(一五三一)、父の三好元長が阿波より堺に出陣する。六月四日、元長が摂津天王寺で細川高国を破る。とかあり、堺の南宗寺は三好氏の菩提寺とか、城も飯盛山城(四條畷市南野・大東市北条)とか、紀伊水道といわれる地域で海上で離れていますが、往来はかなりあったように思われます。

0 件のコメント:

コメントを投稿