『三輪山の古代史』上野誠 [ほか]編、学生社、2003.3の「1山辺の道をめぐって」和田 萃氏の文中に「やすんば」のことが書いてありました。なんだろうと思ったまま、ほったらかしでした。「7都祁の民俗」というところです。
大神神社との関係で、
一つはこの大神神社が、三輪山を神体山としてお祀りしている神社であるということです。神体山としてお祀りする形式は、三輪山の東に位置する高原地帯(東山中(ひがしさんちゅう))、都祁地域によく残っているのです。 三輪山に鎮まる大物主神は、ヲロチとも小さな紐蛇とも伝えられ、龍蛇神ですが、雄雅山に鎮まりますのも黒いヲロチとされており、しかも神体山です。雄神(おが)神社は、鳥居だけがあり、拝殿も本殿もありません。お山そのものを祀っています。野々神岳は、たしか三輪さんの奥の院という言い方もされており、全国的に強い信仰を持っています。・・・
省略しましたが、雄雅山は都祁村に野々神岳の二つの山、雄雅山・雌雅山のひとつと書いてあります。
葛神(くずがみ)の信仰もよく残っていて、都祁では明治以降、葛神社の葛は国津と表記を改めたので、国津神社となってる事例が多く、葛神信仰は現在も盛んです。
そして葛神の信仰は、都祁の南に位置する宇陀郡にも、また吉野郡にも広がり、飛鳥川の上流地域にも色濃くあります。・・・
三輪山の西北の桜井市箸中に国津神社があるとのことで、葛神に結びついてくるのだろうともあり、
三輪山と同じ信仰が、奈良盆地の東南部と東の都祁、宇陀、吉野へと一帯に繋がっていく様子が見え。今後、三輪山の信仰を考えていく場合、一つの重要な視点としてあると思われます。
はしょりましたが、メモ書きです。
さて、「やすんば」ですが、
それから雄神神社の麓の駐車場に立ってみると、西北の方に白石の国津神社が見えます。その国津神社に至る途中に四カ所、田んぼの中に小さな灌木茂ってい茂っているところがあり、それを「休(やす)ん場(ば)」とよんでいます。この都祁の「休ん場」は、全国的に見ても非常に注目すべき民俗といえます。
これは、雄神神社の神様が、国津神社に行かれる時に、休まれる場所だと伝えられています。そしてそこは強いタブーがあり、田んぼの中のごく一画、クヌギなどが茂っているだけですが、絶対手を触れてはいけない、中へ入ってはいけないという場所であり、それが四カ所点在しています。これは、まことに珍しい景観です。
ここは神様がお休みになる場所とされているのですが、関連してすぐに思い出されるのが、『出雲風土記』の冒頭にある八束水臣津野(やつかみづおみつぬ)命が国引きをしたというくだりです。国引きを追えた終えた八束水臣津野命が意宇(おう)の杜(もり)に杖を衝き立てて、「意恵(おゑ)」と言った。「おゑ」とは、疲労困憊して体が動かなくなる、眠くなるという状況、それを「おゑ」と古代ではいいました。・・・
そして「おゑ」がなまって、「意宇(おう)」となったと記しています。出雲の意宇の杜は、意宇郡の郡家の東北の片隅の田の中にある小さな塚、小山で、現在も残っています。それは田の中のごく一画の狭い場所で、非常に強い禁忌があり、手を触れてはいけない場所と記述しているのも、都祁の「休ん場」と共通しています。都祁の「休ん場」は古代の意宇の杜と結びついてくる。
先頃、私は出雲へ行き、各地の遺跡を見学してきました。八雲立つ風土記の丘へも行き、そこで資料を見ていましたら、意宇の杜の所在地が書いてあったので、たずねて見ました。出雲国府の場所から東北へ、一・五キロぐらいの田の中にあります。
小さな森で、樹齢二百年ほどのタブの木が繁り、全体を注連縄っでかこってあります。近くの上竹矢(かみたけや)、中竹矢(なかたけや)の人たちが、十月一日にそこをお祀りをし、やはり現在も手をつけてはならない場所とされています。
この意宇の杜や、都祁の「休ん場」、葛神信仰などは、今後、三輪山の祭祀を考えて行く場合の一つの重要な分析視覚になるだろうと感じています。
「やすんば」と「大神神社と出雲」が当ブログにあります。おかしなことを言ってるところは無視してください。
引用が長かったですが、ここから、妄想です。
大神神社が出雲と関係があると考えても、単独で出雲から大神神社にやってきたとしては成立しません。例えば、都祁の地域は食料生産、吉野とかは吉野川から紀ノ川に至るヤマトと出雲とのルート確保など、全体として機能しなければなりません。自給自足の時代なので、大神神社の近傍一帯が出雲の勢力と強いつながりが必要条件になるような気がします。この出雲の貢献が大であるという意識からから、奈良時代になり、出雲勢力の排除に対して、強く反発したこともありうると思います。
ヤマトの地域の開発とかに出雲が貢献した痕跡とか見つけられるかというところが今後の課題です。
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