山辺の道(やまのべのみち、古代読み:やまのへのみち、古風な表記:山辺道、旧字表記:山邊道)は、日本の古道の代表的な一つ。大和の古道の一つ。古代大和の山辺(やまのへ。山辺郡の語源にあたる地域名)に通した道である。日本史上(記録上)最古の道[1][2]、日本現存最古の道として知られる。ウィキペディア
『三輪山の古代史』上野誠 [ほか]編、学生社、2003.3の「1山辺の道をめぐって」和田 萃氏の文中に
さて、山辺の道というのが、どこでもありそうな呼称でありながら、他にはほとんど例がないのはなぜか、おそらく山辺の道は、特別な呼び方であったと考えられます。
山辺の道は、どこの山の麓でもいいというわけではなく、じつは三輪山の山麓の道という意味が、古くから強く込められていた。だから三輪山の麓の山辺の道沿いに崇神陵と景行陵があり、そしてその道の延長に山辺郡という郡名がつけられた。また添上郡山辺郷の郷名も、今の奈良市の法華寺のあたりに相当しますが、山辺の道が通っていたことに基づくかと思います。
そしてこのことは、あまり強くいうとお叱りを受けると思いますが、邪馬台国の所在地論とも結びついてきます。邪馬台国は、元来「ヤマトの国」と読むべきだと思いますが、ヤマトの地名そのものも、実は三輪山の麓ということを強く意識していたと考えられます。
この部分、確かに問題発言ではあろうと思います。邪馬台国とヤマトは関係ないとは思いますが、ヤマトの由来は可能性としてあると思います。
『日本書紀』崇神八年条に見える歌謡に、「倭(やまと)成す大物主(おおものぬし)・・・」の表現があります。三輪山で祀られているオオモノヌシ神(大物主神)がヤマト、これは後の奈良県全体の大和国ではなく、初瀬川流域の狭い意味のヤマト、その地を造った国造りの神であると歌っています。山辺の道もそうですし、ヤマトという地名、邪馬台国もすべて三輪山の麓ということが、強く意識された呼称であるということです。
どうかなと思うこともありますが、山辺の道は神聖な道であると理解しました。以前に能勢街道に古墳が点在しているということがありましたた。古墳の埋葬儀礼は一回だけでなく、継続して行われると思います。つまり古墳にアクセスするために古道が生まれ、墓参りが継続して行われたと思います。仏教では何回忌とかあります。子孫がキリスト教とかに変わったとして、古墳の横に教会を建てるかもしれません。古墳の場合も同様で、古墳のそばに神社を建てるのも継続的に宗教行事が行われたということになります。この本の中で長岳寺近くにかっての大和(おおやまと)神社があったとあります。そうすると古墳時代から仏教の時代まで宗教が異なっても信仰の地域であったということです。山辺の道は軍兵が通ったという話があり、違和感がありましたが、やっぱりだと思いました。 以下能勢街道の記事です。
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