ところで岡町から池田まで、古くは刀根山(現在の大阪大学豊中キャンパス南方)回りの山道を通っていた。この坂が急で物資運搬に支障をきたすため、明治27年(1894年)に現在の阪急豊中駅付近から石橋にかけ、比較的平坦な新道が開かれた。これを「新能勢街道」といい、現在の国道176号ルートとほぼ同じである。 とウィキペディアにあります。
写真は能勢街道の折れまがりの場所で、道標に右大坂とあります。「新能勢街道」のつけ替えの場所のような気がします。角の建物が建替えで現在取り壊したため見通しがよくなりました。奥の方に緑の木々が見えますが、古墳です。二子塚古墳の看板があります。古墳がランドマークとして能勢街道の横にあると思いました。ところが、能勢街道を池田市の方に進んでいくと、尊鉢厄神(そんぱちやくじん)と呼ばれるお寺があり、近くに鉢塚古墳(現在、五社神社のところ)があります。
ウィキペディアでは
この鉢塚古墳は、古墳時代後期-終末期の6世紀末-7世紀初頭頃の築造と推定される。猪名川東岸地域では二子塚古墳(池田市井口堂、6世紀前半)から1世代の空白を経て(ただし二子塚古墳の未調査石室が空白を埋める可能性がある)築造された首長墓と位置づけられ、当該時期の猪名川西岸の首長墓である白鳥塚古墳(中山寺古墳、宝塚市)とともに大和の石室と共通性が認められる点で特色を示す。
とあります。今も古墳時代の石室を見学させてもらえます。入口からのぞき込むぐらいしか出来ませんが、内部には石造の十三重塔?があり、鎌倉時代のものとされ、今もお供えとか見えたので宗教的な儀式が行なわれているようです。ということは、古墳時代も何らかの宗教儀礼が行なわれ、今に至るまで続いているのかもしれません。のぞき込むだけで内部の詳細はわかりませんが、高さは五メートルほどあるようで、単なる石棺を納める空間ではありません。埋葬されたときでも近親者による埋葬儀礼が行なわれていたことが想像されます。高松塚古墳のような壮麗な空間があったかもしれません。横からの写真で見ると、古墳があった場所に、古墳を残しつつ継続して神社として祭祀の施設となったように思われます。古墳宗教から律令時代の神道に変化しても(日本の国の体制は激変しても)、地域の支配体制は変化がなかったと妄想できます。
竹藪のところが鉢塚古墳、その左側が神社の建物 |
能勢街道のこの部分に偶然に古墳が連なったのではなく、古墳をつなぐ道としてあったように思われて来ました。古墳は今は遺跡としての認識になっていますが、当時の人にとってはお墓です。つまりこの場所で埋葬儀礼のような祭祀が行なわれていた場所です。有力者の埋葬であって、家族葬のような身内で行なうものでなく、近隣の有力者も参列したはずです。そのため辺鄙な場所では人が集まれず祭祀儀礼が行えないことになります。アクセスできないと話になりません。これらの古墳は猪名川流域・箕面川流域にあり、遠方からは舟で到達出来そうですが、古墳時代にも少なくとも能勢街道のこの部分は遠来からの有力者に恥ずかしいものでないように古墳の直近の道路は整備されていたことが考えられます。二子塚古墳と鉢塚古墳も、時代は違っても同一のルートとして参列者の往来に利用されたことが想像されます。
古墳と関係では、能勢街道のルートにある原田神社も関係あるかもしれません。原田神社の社伝によると、桜塚古墳群の故地に4世紀中から5世紀末頃創建されたとされ、古代には素戔嗚尊など五神をまつり祇園神社と称した。とウィキにあり神社の前の時代は古墳であって、能勢街道の起源は古墳時代に遡ることが考えられます。
古墳は海岸沿いや川沿いのよく見えるところにあり、権威の象徴であると聞いていましたが、古代では陸路は整備されておらず、水上交通により往来があったとすれば、大きな古墳ほどアクセスしやすい場所にあったとも考えられます。影響力の大きい有力者であれば葬儀に集まる人も多くなり、前方後円墳で、方形に祭壇が設けられたとすれば、多くの人数を収容するために巨大化していくことになります(鉢塚古墳は上円下方墳とのこと)。
追記:R021111
能勢街道の付け替えられた部分は記述してるところではないようです。
(史跡をたずねて 能勢街道の風景、瀧健三編著、ドニエプル出版より)
元々は阪急宝塚線の豊中駅を北に向かいますが、明治の新能勢街道はここから阪急沿線に沿って北西に進みます。勘違いした稲荷山古墳(二子塚古墳)のところは元々あったようです。西国街道から能勢街道に進むバイパスのような道であったということです。今も171号線のバイパスがあるので昔もあったということでしょう。
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