2020年5月22日金曜日

能勢街道と古墳の位置関係の図

 能勢街道のところですが、今ある道が昔から残っていると思っていましたが、かなり違っていました。戦後とかに新しく道路ができてきて、この能勢街道も寸断されているようです。しかしながら古墳の場所は昔の能勢街道の部分のようです。1920年代の地図ではつながっているようです。


 図は大阪教育大の国土地理院からの地図です。池田市の一部を持ってきました。1923年の地図のようです。Aの鳥居が二子塚古墳です。稲荷社が祀られています。Bが五社神社にある八塚古墳です。ウィキには、墳形は円形と推定され(かつては上円下方墳とされた)、とありました。水色の線が箕面川、茶色の線が能勢街道のつもりです。赤の線は池田市の境界線です。地図で見ると左手の夫婦池など2個ですが、4個ではで池が田んぼの形になるように見えます。昔は池が多くて、田の形に並んだ池があったのかもしれません。妄想が進みますが、地図内では井口堂とあります(茶色と水色の交点付近)。この井口は条里制の入り口という意味で(井は縦と横の二本線で条里制の区画をイメージした文字)、箕面川を基準に条里制が開発されたことを想像させます。とするとこの中にため池を作るとすれば方形になり、池は条里制の遺構と考えられます。
関係ないですが、石橋駅が近くあります。この地名の石橋は箕面川に石の橋がかかっていて地名になったのでではなく、近くの用水路のような川にかかっていた石棺のふたの部分のような大きさの石橋に由来するらしいです。

地図の出所

追記:R020530
池の田ですが、四個並んで田の形は無理かも知れません。池は集中してあるよりも分散して配置された方が効率的に思います。四個からの配水であれば、池の四辺が利用できる方が良いので、夫婦池でも効率が悪そうに思えます。なぜ、この配置になったかも分かりません。田の形のところに四角い池が造られたということで池田の地名が生まれたと考える方が自然に思われて来ました。

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