2018年9月19日水曜日

和泉

「イズミ」と読みます。大阪府泉北地域に和泉市があります。
地名の和泉ですが、和泉国があった所です。もともとは泉であったが、好字令により国名を2字にする必要から「和」をつけ、「和」は読まないということです。
ここで問題は、
1.なぜ、この地が泉と呼ばれたのか
2.なぜ、好字令で「和」が選ばれたのか
ということがあると思われます。
歴史の中の石造物 ー人間・死者・神仏を」つなぐー、山川 均著、吉川弘文館発行
をみての単なる思いつきです。
この石造物の本ですが、第1章の慶政《けいせい》と石塔のところに注目です。20頁に

 慶政は日本で最初に石造宝篋印塔を創出した人物である。宝篋印塔とは、基礎・塔身・屋根・相輪からなる中国起源の塔形で、屋根の四隅につく耳状の隅飾りと呼ばれる突起が外見上の特徴である。石塔以外にも、金属塔や木製塔がある。「宝篋印塔」という名称は、塔身に宝篋印陀羅尼という経文を納めたことに由来する。・・途中省略・・
 前記したように、石造宝篋印塔は中国起源である。しかし、その宋代における分布範囲は、福建省泉州から厦門《アモイ》にかけての沿海部で、中国大陸全体から見ると非常に狭い範囲にすぎない。一方、当時我が国から中国に渡った僧侶の活動範囲は、その大半が浙江省《せっこうしょう》寧波《ニンポー》を中心としており、福建省まで足を延ばす者はいなかった。この時代の日中交易の正式ルートは博多ー寧波間であり、また、同地には阿育王寺《あいくおうじ》や天童寺《てんどうじ》などの著名な寺院が存在したため、わざわざ福建省まで行く必要がなかったからだ。
 こうした状況下で、慶政は福建省泉州に滞在したことが文献から明らかになる唯一の僧侶である(「波斯文文書」)。当時の泉州は、マルコポーロが「東方見聞録」中でアレキサンドリアと並び称したように、東南アジアや西アジア、さらにヨーロッパの人や物が行き交う、アジア最大級の貿易港であった。慶政は僧侶としての立場だけでなく、九条家の一員としても、この地に興味を抱いていたのだろう。

と書いてあります。慶政は九条道家(鎌倉幕府第4代将軍頼経の父)の兄とされます。
 時代が違いますが、古代に、中国泉州と和泉が何らかの交易関係にあり、泉に対して中国の泉州が頭にあり、日本の泉州であることから和泉となったのかと妄想します。問題1・2の答えに繋がります。これは遣唐使の南海ルートに和泉が関連していた可能性があることを示しているので、まだまだ証拠不十分ですが、これから考えていきたいと思います。
宝篋印塔

追記:2018.10.02
「大阪春秋」和泉市特集号、今年度の夏号ですが、和泉の地名由来が書かれていました。
JR和泉府中駅から東へ5分のところに泉井上神社が鎮座している。この神社は平安時代にまとめられた「延喜式神名帳」に見える古社の一つで、本殿北側に大阪府指定史跡の和泉清水(いずみしみず)があったという。和泉の名のもととなったという。
とありました。実際に泉があったとのことです。そうだろうなとは思いました。もう少し考えてみたいと思っています。

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