「入門 歴史時代の考古学、近江俊秀著、(株)同成社発行」
を見ています。考古学の研究史を踏まえながら、いかに文字資料と向き合っていくかとのことで、最初の章の話です。
石田茂作は、仏教が飛鳥や斑鳩から全国に拡散したとして、瓦の文様と寺院の伽藍配置の形式を調べ、クリアにしたが、実際にはその後の発掘調査などで多様な伽藍形式があることがわかったということです。一つの系統から拡散したものではなく、蘇我氏から広まるのに加え、厩戸王一族(上宮王家)ももまた仏教の担い手になったらしく、また地方でも独立した別系統のものもあるようです。
誤解しているかもしれませんが、この時代のグループが、戦国大名の治める領国のようなものでなく、まだら模様にいろんな地域が結びついていたように思えます。つまり天皇をトップにしてはおらず、それぞれの地域をモザイク状にグループ化されていたのかとも思います。仏教が公伝したとしても、基準化されることなく、それぞれの地域で自由に取り入れられ、多様な伽藍形式・瓦の文様になったということでしょう。公伝の時の年号など何年かとかあまり意味がないように思います。
現在、七堂伽藍が整えられた最古の寺として飛鳥寺が考えられているとのことです。百済からの工人の指導の下に建てられていて、基壇なども朝鮮半島由来のもののようです。一方、塔の地中深くに埋められた新礎の上から出土した舎利荘厳具は、馬具や短甲が含まれるなど後期古墳の埋葬品と何ら変わらないことがわかった。つまり、日本最初の本格的な寺院である飛鳥寺には、渡来の技術と日本の古墳文化の融合がみられたのである。と書いてあります。
これは、クレオール的な話になっています。古墳文化と渡来系の文化の融合というか衝突のようなものが、この時期に起こっていますが、文字を取り入れて、古代のアイヌ語と朝鮮語がぶつかり、日本語の基礎が形成されたことと一体の話のように思われてきました。傾向的には合っています。
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