小林がどうして生まれたかの仮説です。近くに小さい林があって、小林の名字を取り入れたというものではありません。大まかな流れです。おかしなところも多々あると思います。
一,律令制度開始により、林という名字が使われるようになった。
考えているのは越前。越中など、富山県・石川県・福井県あたり。
参考 名字:林と小林
二,すぐに口分田の不足とか、律令制の問題が起こった。
三,対策として三世一身法(七二三)、墾田永年私財法(七四三)が出される。
これは、開墾した者にはその世代から三世代、そして永久に所有を認めるもので、開発主体は上級貴族・大寺院とのことです。律令制下、過剰な負担に耐えかねて、浮浪や逃亡が多かったようです。
四,越前、越中、加賀の地域で、寺社や上流貴族の新田開発計画に乗ったか乗せられたかして、林グループが信濃へ集団移住、さらに甲斐国にも進出。国司の制度とか甲斐国にも遅れて出来た。
五,この地域で、心機一転、名字を林の子孫の意味の小林として土着した。
西日本から多数の人間が山梨県に移ったことになり、西日本風の方言を当然のごとく使った。それが、現在まで、名字や言葉に残っているのが甲斐国、山梨県でしょう。
これが、荘園になっていくのですが、鎌倉時代以降に武士の時代になり、土地の所有者が変わってしまい、わからなくなったとは思われます。しかし日本史総覧#の主要荘園一覧に、甲斐国では京都の寺社とか出てきているように思えます。東大寺とか出てきておれば確実だと思いますが、残念なところです。
正倉院展で、何かしら毎年展示されているようです。今年は、国司と東大寺の間で領地の争いがあった例##が展示されてました。土地が深刻な問題であったと想像されます。おそらく逃亡したとされる農民なども計画的に移住して開墾していった地域と、渡来人の移住した地域では、違いが出てくるのだと思われます。甲斐国では逃亡や浮浪の農民が、多数、移住していって、影響を受けるのではなく与えたと思われます。日本史通覧###には、正倉院文書の例として山城国で、四十一人中二十一人が近江や筑紫へ浮浪逃亡しているとあります。この時代、民族の大移動に近いことであったのかもしれません。西日本でも未開発の所に広がっていったのかもしれません。
#日本史総覧
日本史総覧Ⅱ 古代二・中世 監修 児玉、小西、竹内、新人物往来社 発行
##第六九回正倉院展図録
###図説、日本史通覧六九頁、帝国書院
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