大津宮遷都翌年の六六八年(天智天皇七年)に、天智天皇の命により建立したとされる。扶桑略記に、大津宮の乾(西北)とあることから、この寺院から大津宮の位置を特定するために探索されたとのことである。現在、この地に確定している。尾根を削り、伽藍が建てられ、三カ所に分かれている。北側の尾根が弥勒堂跡、中ほどが小金堂、講堂、三重塔の中心部で、塔心礎から発見された舎利容器等は国宝となっている。南尾根には金堂跡とされるところに崇福寺旧址の石碑がある。こちらは、延暦五年(七八六)に桓武天皇が天智天皇の追悼のために建立した梵釈寺跡と推定されている。崇福寺は延暦年間に十大寺に選ばれ栄えたとのことであるが、桓武天皇のバックアップとしか思えず、室町時代には廃寺となったとのことである。桓武天皇が、天智天皇の後継であることを強く意識していたのであろうと思われる(桓武天皇行幸を参照)。崇福寺は尾根が南北に位置していて、おそらく東側の琵琶湖から眺めることができたと思われる。四天王寺が海側から見て伽藍配置が一直線上にあるのを思い出す。琵琶湖の対岸の石山の方に国府が推定されていて、ここからかっての近江朝廷を感じることができる景観を作っていたと思う。このこだわりから天智・天武の対立が強かったことを示しているのかもしれない。
あまり関係ないですが、崇福寺跡の紅葉。
桓武天皇行幸
以下、滋賀県百科事典、一八七頁の引用である。
奈良時代の天皇が天武天皇系であったのにたいし、光仁天皇・桓武天皇など奈良末・平安時代の天皇は天智天皇系であり、このことが桓武朝において、近江国への特別な対応が見られることになる。梵釈寺の建立や古津から大津への改称などはその例であるが、桓武天皇の近江行幸もその現われとみることができる。八〇一年(延暦二〇)、八〇三年(延暦二二)、八〇四年(延暦二三)と晩年には連続して近江への行幸を行っているが、とくに八〇三年には、三月・四月・閏一〇月と三度も行幸している。三月・四月は可楽崎(唐崎)であり、閏一〇月は蒲生野である。蒲生野の行宮では「山々も麗しく野も平くして、心も穏やかである」と詔している。おそらく天智天皇の蒲生行幸とのかかわりがあってのことであろう。
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