2017年11月3日金曜日

正倉院展

 今年も正倉院展に行ってきました。人出が多く、今回は少し遠慮がちに見学したので、細かく見れないところなどもありました。まあ仕方がないところもあります。正倉院展の図録を買ってきて、思い出しつつ書いています。
 表紙は、緑瑠璃十二曲長杯(ミドリルリノジュウニキョクチョウハイ)です。これは長横の側面に兎の姿を刻んでいるとの事でしたが、私には龍のように見えてしまい、うさぎとは思えませんでした。
 家に帰って図録を見れば、耳などがわかり、兎に見えてきました。その時は全然見えてなかったです。偏見を持つ体質かもしれません。
さて、今回の注目は、東大寺開田地図(越前国足羽郡糞置村田図) です。。No.38展示。

 今の福井県に、東大寺の開発した所領の図で、マス目は条里制を示しています。二枚目は一枚目の拡大図になっています。マスには番号が振られ、寺の表記が東大寺の所領で、百姓らしき表示が寺以外であろうと思われます。これは天平神護二年(七百六十八年)のもので、ほぼ同じものが天平宝字三年(七百五十九年)にあり、改めて七年後に本図が作成されたのは、国司等から不当な扱いをされたため、改めて寺領を確認するためのもので、左に越前国司と検田使(東大寺僧と造東大寺司官人で構成)の名があるとのことです。八世紀半ばで国司と寺とで領地争いがあったとのことです。

 先の図に対応したのが、東南院古文書第三櫃第十八巻(越前国司解)で、No.39に展示されていました。目録の解説によれば、越前国司が、同国の東大寺領を検田使と共に調査し、天平神護二年(七百六十六年)に、その結果をまとめたものである。天平勝宝元年(七百四十九年)東大寺領となったものが、その後、国司が勝手に口分田として住民に班給したり、郡司などの寺の使いに対する暴力行為、灌漑施設の破壊などがあり、寺側が訴え、太政官が越前国司に命じて、正しい形に復することになった。
とのことです。
 口分田(くぶんでん)とは、律令制において、六歳以上の男女へ支給された農地で、死後に返却するもので、税をそこから徴収することになります。墾田の文字もありました。墾田とは自分で新たに開発した土地のことで、墾田永年私財法が天平十五年(七百四十三年)に出されて、田地の開発が行われたようです。貴族・大寺院の私領化につながったとされますが、この頃には、口分田の不足などが墾田に紛れ込むなどの混乱があったように思われます。律令制が成立しなくなってゆく状況を示しているように感じます。このことにより、律令制の根幹となる戸籍が実態に合わなくなってきて、最終的にはなくなってしまったと考えられます。その結果、戸籍が成立した時代、律令制の時代が百年ほどでなくなってしまい、その大和の政権の領域が西日本に分布する名字分布として残ったということになりそうです。東日本などに広がる前にということです。
参考
第六十九回 正倉院展図録、八十四頁ー八十七頁
奈良国立博物館、展示案内、第六十九回正倉院展

2 件のコメント:

  1. 正倉院展を観た方にネット小説「北円堂の秘密」をお薦めします。
    グーグルやスマホでヒットし、ラストまで無料です。
    少し難解ですが歴史ミステリーとして面白いです。
    北円堂は古都奈良・興福寺の八角円堂です。
    読めば歴史探偵の気分を味わえます。

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  2. ネット小説、北円堂のご紹介ありがとうございました。北円堂は国宝であるのに、多くの人が通り過ぎていきます。先月写真を撮ったのに見てないのを思い出しました。小説は詳しく勉強されている方のようで、へーっというところもあり、興味深く拝見しました。わかっていないところとかあるので、今後勉強していかなければと思います。総合的に知識が無いので、コメントとかで、いろいろ教えていただくと参考になります。

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