2018年5月28日月曜日

和歌山県の安田、南海航路

 和歌山県には安田の地名はないと思っていました。遣唐使の南海航路(紛らわしいので南島航路はやめます)のことで沖縄県と高知県が結びつくかもしれないと思い、ひょっとしたら和歌山県の方と関係あるかもと考えました。
 角川日本地名大辞典30和歌山県を見ました。安田ではなく保田が有田市にありました。保田のところ、古代から戦国期に見える庄園名・・・。また、保田荘《やすだのしょう》、江戸期の荘名。有田郡のうち、中世には保田荘が見えるが、近世で属した村々は「続風土記」によれば、辻堂・山田原・中島・星ノ尾・千田の5か村。とあります。明治二二年から5か村が合併して保田村となり、役場を辻堂に設置とのことです。現在は有田市辻堂のようです。学校の名前などに残っています。


 和歌山県は現在の和歌山市紀ノ川沿いが、古代より栄えたところです。保田(もちろん安田と考えています)は有田川沿いで、新興勢力の地域のためか、微妙に紀ノ川から離れています。
 和歌山県には、鳴滝遺跡があり、これが難波宮にあった倉庫群と似たようなものであるとのことで、遣唐使と関係があり、南海航路と関係あると思いましたが、遺跡は和歌山市で保田の有田市と紀ノ川・有田川と離れて距離があり、どうも違うようです。
 和歌山県の歴史散歩、山川出版に鳴滝遺跡の説明がありました。
 大谷古墳の北東約1kmにある近畿大学附属和歌山高校のテニス付近が鳴滝遺跡である。一九八二年に発見された、当時全国最大規模の古墳時代の巨大倉庫群遺跡で、その後発見された法円坂古墳(大阪市)と並んで貴重なものである。和泉山脈南麓の丘陵を削平したうえで、西側に5棟、東側に2棟の掘立柱建物が整然と配置され、一棟の規模はそれぞれ桁行四間・梁間四間で、最大のものは10.1m×8mであった。柱を抜き取った穴から楠見式土器が出土したことから、五世紀前半から中頃のきわめて短期間に存在し、その後人為的に廃されたようである。束柱とは別に上屋柱を設けて切妻屋根の荷重を支えるこの建物群については、紀氏集団の倉庫跡とする説とヤマト政権の倉庫跡とする説に分かれる。遺構は埋め戻され、建物の復元模型と遺物は、和歌山市、岩橋《いわせ》にある県立風土記の丘資料館に展示されている。・・・
 この鳴滝遺跡ですが、紀ノ川を上流に向かっていくと奈良県につながります。瀬戸内海航路が封鎖され、南海航路を使わなければ成らない時に、この集積地が必要とされたのではと考えたくなります。いろいろと南海航路の問題が出てきて、すぐに廃止されたと考えればつじつまが合います。
また参考になることとして、復元日本大観4船、世界文化社に、
 室町時代には、日明貿易が行われ、遣明船は兵庫を出帆後、博多に集結して準備をととのえながら、気長に季節風を待ち、機を得ると、春は五島列島の奈留島、秋は平戸北方の大島に進出し、東北の順風を得て、東シナ海に乗り出し、寧波《ミンポー》に到着した。・・・なお、のちに大内氏と敵対した細川氏は、堺を出帆して、四国の南を通り、南九州の坊ノ津を基地として渡海した。と書いています。(七十九頁)
 瀬戸内海の航路が使えないときに南海航路が採用された例になります。もちろんこの時は造船技術の発達や磁石の利用など違いはあるようなので、遣唐使の時代にそのまま当てはまるものではないとは思いますが。

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