2018年5月18日金曜日

遣隋使と推古天皇

 図書館で遣唐使の本を探していたら、遣隋使の本があり、借りてきました。
   遣隋使が見た風景 ー東アジアからの新視点ー 氣賀澤保規 編、八木書店
です。四百頁を越える労作です。
 付録の人物略伝2(倭国編)の最初に推古天皇があげられています。
推古天皇(五五四~六二八、在位五九三~六二八)実在が確実な日本史最初の女性君主。和風諡号はトヨミケカシキヤヒメ。「推古」は八世紀後半に淡海三船が撰上した漢風諡号である。・・・
となっていて、実在が前提とされています。私は、持統天皇のイメージとしては存在していますが実際にはフィクションであったと考えています。この本では、実在したとして話が進められています。おそらく遣隋使を派遣したことで、その記録が隋書倭国伝と日本書紀の記述で合致するからであろうと思われます。しかしながら、私には合致しているようでしていないように感じます。皇国史観によれば合致してくれなければ困るという立場になると思いますが、冷静に日本書紀を疑う立場で考えれば、実在しているのは確実ではありません。
二十七頁に
史料の信頼性・作為性の問題がある。とりわけ「隋書」よりも半世紀以上も後に編纂された「書紀」にあっては、「倭国伝」を見ての作為・装飾を施した可能性は当然想定できる。
とあります。書紀の中で隋を一貫して唐(大東)」と表すのは、書紀が唐向けに書かれたものだからと思われます。律令を推進する勢力が過去の勢力との継続性を強調する意味で遣隋使が取り込まれていると考えられます。六〇〇年の遣隋使については入れる必要性はないと判断したと思われます。整合性は完全には取れていませんが、その逃げ道として、小野妹子の国書紛失事件を作ったと思います。乙巳の変の時にも、蘇我蝦夷が自害して、「天皇記」とかが失われたとかありました。これらの部分は間接的に書紀が作為の可能性をほのめかしているところと現在は考えています。推古天皇(聖徳太子も含む)と遣隋使を結びつけなくても良いということです。

2 件のコメント:

  1. 中国史書の倭国伝には大和王権の人物は一切記述されていません。彼らの名前が記述されているのは旧唐書からです。日本が中国外交をしたのは唐代になってからとあります。かたや倭国は漢朝の時代には外交が始まっていました。何故ならば日本書紀には遣隋使の記述は無く遣唐使の記述があるだけだからです。そしてそれ以前の中国南北朝時代、三国時代等具体的な外交記事がないです。神功皇后の記事に卑弥呼と壹与の事績が有るのは無理やり二人の記事を一人の記事にしたと思われる。

    返信削除
  2. コメントありがとうございます。
    反応遅れてすみません。また「遣隋使が見た風景」を図書館に見に出かけました。倭国伝には人物名が記されていましたが、唐の使いで、隋とは書いていません。大和王権の人物のように扱われていますが、いろいろと不明でした。確かに倭国と日本と区別されているようです。倭国伝を見て、日本書紀ができ、それに影響されて唐序とかできているのかとも思いました。今、日本語の起源に注意が向いていますが、こちらも考えていきたいと思います。

    返信削除