世界史とつながる日本史 ー紀伊半島からの視座ー
ミネルバ歴史・文化ライブラリー33
この本では、紀伊半島の歴史を扱っています。南海路に関係しているところをみました。
.徐福伝説
古いところでは徐福伝説について書いてあります。今から約二〇〇〇年前に方士(仙術をを扱える者)の徐福が秦の始皇帝の命を受け、不老不死の仙薬を求めて蓬莱の国へ赴くが、秦へ帰ってくることがなかったというものである。徐福伝説も黒潮という海流の存在が大きく、漂着伝説の一つとして、また熊野というところの常世信仰と紀伊半島が結びついたのであろうということです。
.大谷古墳に見る古墳文化の国際性
これは朝鮮からの影響が強いということで、南海路と関係がなさそうです。しかし、この地域が朝鮮・中国・インドへのつながりがあるようなことも書いてあります。
.新・大航海時代
話が飛びますが、この本では、百七頁から
日本史料のなかで、戦国時代には紀伊半島は「紀州惣国」という国家組織があり、一揆(団結)して、自立していたとのことです。一五八五年、秀吉の紀州攻めで、中野城合戦、大田城水攻めなどで使われた一六世紀の鉄砲玉の産地が、大半が外国製で、中でもタイのソントー鉱山の鉛鉱脈が多い。長篠合戦では、日本産が半数だったのに対し、和歌山平野のものは八〇パーセント強がアジア産である。と書いてあります。
この地域では南海路から持ち込まれた弾(または弾の材料)が多かったのではと考えられます。
.鉄砲伝来
真説 鉄砲伝来、宇田川武久著、平凡社新書では、鉄砲伝来も、天文一二年(一五四三)、種子島に漂着したポルトガル人が伝えたという説明が、どうなのかと言われているようです。しかし厳密には違うかもしれませんが、おおよそは南海ルートを介して素早く紀州の根来衆・堺に伝わり、結果として早い時期から堺が鉄砲の供給基地になったと考えても自然に思われます。
.鉄砲伝来に関して別の本
同じく平凡社新書で、戦国鉄砲・傭兵隊 天下人に逆らった紀州雑賀衆、鈴木眞哉著という本があります。雑賀衆の末裔の方が書かれていておもしろいと思いました。
雑賀の地は農地として良くなかったらしく、三十九頁から、「昔阿波物語」に言われている交易業である。そこでは湊の衆を指して「商売人」と形容していることは、すでに触れたが、「紀州の者は土佐前を船に乗り、さつまあきない計《ばかり》つかまつる。とも記されている。薩摩商《さつまあきない》いとは、土佐沖を突っ切って、当時、対明貿易の拠点だった薩摩の坊ノ津(鹿児島県川辺郡坊津町)辺りへ行って交易したことをいっているものと思われる。・・・薩摩へ往来した人たちは、そこで停止したわけではなく、中国本土へも向かったようである。明代に鄭若曾《ていじゃくそ》が著した『籌海図篇《ちゅうかいずへん》』*に「乞奴苦芸《きのくに》」*の人もしばしば入寇《にゅうこう》すると記されている。「入寇」などという穏やかならざる表現がされているのは、彼ら紀州人もいわゆる「倭寇」の一員とみなされていたからである。・・・とあります。
*はキーの打ち込みに自信がないところです。戦国時代には、南海航路があったということで、それがいつまでさかのぼれるかということだと思います。
南海路とずれますが、この本では、第五章に、石山合戦と雑賀衆があります。
石山合戦とは、織田信長と本願寺が元亀元年(一五七〇)から天正八年(一五八〇)まで、戦ったものである。途中二回の講和。休戦があったとあります。巻末の年表を見ると、各地に一向一揆が起こっており、十年間も続いており、宗教戦争といってもよいぐらいなのに、軽く考えていました。
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