2021年6月16日水曜日

秀吉の「中国大返し」と大阪城

 2021年6月9日(水)22:30~23:15、NHKの歴史番組「歴史探偵」『秀吉 中国大返し』を見ました。 この番組は、今まで放送していた「歴史秘話ヒストリア」の後番組です。 内容については以下、参考にしました。記憶があやふやだったので助かります。 
NHK 歴史探偵「秀吉 中国大返し」を視聴しました 

 番組でも最初の前説が長いですが、秀吉の行軍で船を利用したのではないかとことです。

■一気に解決する新説 船の設計士をしている播田安弘さんが主張するのが、船を利用したのではないか、という説です。 ある港に注目したときのことです。 岡山県東部 備前焼の産地である来住家に太閤門が残っています。 ここを拠点としていた史料が残っていました。 船に武器を積めば軽装でいけたのです。 陸での移動は数々の検証をしてきましたが、船の可能性はあるのでしょうか。 瀬戸内海は西日本の物流の中心です。 陸上と海上に分けて輸送したことはあり得ます。

来住家の太閤門は、岡山県備前市浦伊部とあります。 なぜここに太閤門があるかということですが、信長の毛利攻めの時、毛利側が防衛ラインの「備中七城」を築き 、その手前に信長側が拠点として確保したということだと思います。備中高松城水攻めとかありましたので。 なぜに「備中七城」があるかといえば、元々は倭国である吉備が、後に日本となる大和と対立したときの防衛ラインが痕跡として残り、これが利用されたとのではという妄想にあります。番組では、大返しにあたって秀吉が瀬戸内海の制海権を握っていたということです。その後、秀吉は大阪城を築きますが、その前提として瀬戸内海の制海権を確保したことがあると思いました。これは信長の石山本願寺との戦いで難儀したのも石山本願寺が制海権を持っていたためと考えていて、秀吉もそれを引き継いだと考えられます。この経験が海を使った軍事侵攻として文禄・慶長の役につながっていったと思います。 

話は唐突ですが、孝徳天皇の前期難波宮を思いだします。この時もやはり瀬戸内海の制海権を確保していたことが浪速の宮城が成立した要因になると思います。

番組では、城に関連した話もありました。

■ある城に鍵が それは、兵庫城 千田嘉博 奈良大学教授 信長を迎えるために大改修して御座所を設けていました。 信長が秀吉に加勢するため進軍しようとしていたのです。 御座所は大返しで利用したとみます。 明石にも御座所があるのではないかということで船上城を調査します。 陸と海両方で交通の便が良いところで、船を上げていた場所がありました。 城に近づくと、川が暗渠になって続いています。 当時は、10mの川幅がありました。 海から船が通って行くと城の本丸があったのです。 すぐ近くまでたどり着け、山陽道が近くに通っていました。 秀吉があらかじめ準備していた御座所であったのではないでしょうか。

築城に当たって、信長の時代でも、安土城と坂本城で琵琶湖の湖上移動が考えられていて、秀吉の時代にもつながっていきますが、徳川家康の時代に初期は考えられていたものの、五街道の整備とか考えられていくのも、孝徳天皇や天智天皇の時代(天智天皇も近江で琵琶湖)で水上交通重視であったのが、天武天皇以降の街道整備になっていくのと対応しています。歴史は繰り返すというのを感じます。

「備中七城」

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