2021年6月28日月曜日

薬師寺の縁起

 法隆寺からの思いつきです。

薬師寺は天武天皇9年(680年)、天武天皇の発願により、飛鳥の藤原京(奈良県橿原市城殿〈きどの〉町)の地に造営が開始され、平城遷都後の8世紀初めに現在地の西ノ京に移転したものである。ただし、飛鳥の薬師寺(本薬師寺、北緯34度29分33.88秒 東経135度48分0.95秒)の伽藍も10世紀頃までは引き続き存続していたと見られる。(ウィキペディア)

寺の名前は、本尊の薬師如来からきていると思われ、仏像崇拝の時代になり、この仏様が重要視されていて、安置される金堂が中心位置を占める薬師寺式伽藍配置になります。

たとえば、四天王寺式伽藍配置では

南北に南大門、中門、塔、金堂、講堂が一直線上に並ぶ。大阪天王寺区の四天王寺などにみられる。一塔一金堂式。

です。金堂に向かうには、四天王寺式では塔がじゃまになります。

発願者:じゃまなので、塔をなくしてほしいんだけど

寺の僧:塔はお寺にとって大事です。塔はストゥーパといい、釈迦 (しやか) の遺骨(仏舎利 (ぶつしやり) )を収めたものです。なくすことはできません。どうしても金堂に直行したいなら、塔の位置を横にずらしたらどうです。お金がかかりますが、東塔と西塔にわければいいでしょう。

発願者:仕方がない。それでいくか。

寺の僧:さすが太っ腹のお大尽。

となったのかもしれません。日本では二つの塔を持つ寺として薬師寺が最初とのことです。

さて国宝の薬師寺東塔ですが、藤原京からの移建かそうでないかの論争があり、

『扶桑略記』天平2年(730年)3月29日条に、「始薬師寺東塔立」とあり、東塔(三重塔)が完成したのがその年のことで、(ウィキペディア)

通説では平城京にて新築されたとのことです。

年輪年代法では、東塔を構成する木部材で、塔中心の心柱で719年720年のものが見出されたとのことで、これが確定した。 (『よみがえる白鳳の美』加藤 朝胤、鈴木 嘉吉、星野 安治、 池田 藍子、青木 敬、米川 裕治、村上 隆、朝日新聞出版、 2021年02月、65ページ)

ので確かなことでしょう。とすると、薬師寺の縁起で、

「東塔檫銘」には、「清原宮に天の下を統治した天皇(天武)の即位八年、庚辰の歳、中宮(後の持統天皇)の病気のため、この伽藍を創り始めたが、完成しないうちに崩御したので、その意志を継いで、太上天皇(持統)が完成したものである」という意味のことが記されている。(ウィキペディア、薬師寺の項)

という話は、平城京で建てられた、天平2年(730年)ごろになってきます。天武天皇の発願も脚色が入っている可能性があります。持統天皇の病気のため、発願しても崩御でそれでおしまいになるのが、継続して伽藍が完成したということです。天武天皇と持統天皇を強引に結びつけようという意図を感じます。実際には天武天皇から持統天皇への皇位継承は弱いものであったのを補強しようとしている疑いを持ちます。

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