『天文学の誕生――イスラーム文化の役割 (岩波科学ライブラリー)』、三村 太郎、岩波書店 (2010/8/26)
に書いてあることのメモ書きです。
コペルニクスの地動説に到った経緯として、プトレマイオスの天動説があります。コペルニクスの『天球回転論』にはイスラムの学者のことが言及されていて、プトレマイオスの『アルマゲスト』がアラビア語に翻訳され、天動説を研究されていたのをコペルニクスも参照したとのことです。イスラームのアッバース朝の時代のことです。イスラームは、予言者ムハンマドに始まり、最初にウマイヤ朝が成立したが、反発する勢力を利用してアッバース朝が生まれた。支持したのがシーア派イスラーム教徒で、ペルシャ人が多く、元はサーサーン朝ペルシャでゾロアスター教であったので、その伝統を無視することはできなかった。サーサーン朝ペルシャでは書物をプフラヴィー語(中世ペルシャ語)に翻訳したのを受け継いで、アッバース朝ではアラビア語に翻訳されていった。イスラームにはプトレマイオス天文学が展開されていった経緯があるとのことです。 プトレマイオスですが、バビロニア天文学を利用しています。なぜバビロニアで天文学がということですが、バビロニアは占星術の国家であり、国の将来を星占いで決定し、それで前兆を知ることが重要であったことから発展したようです。この発想は中国の天命思想につながり、日本にも「天皇」ということで天武天皇の時代に広まったと個人的に思います。
話が混乱しますが、イスラームの天文学ではインド式計算法を取り入れているようです。天文計算に数値処理が大事であったということで、いろんな地域が関係しています。しかし大元はバビロニア地域であろうとなります。
中国の天文学のところで、瞿曇悉達(くどんしった)という人が出てきました。
瞿曇悉達(くどんしった)、ウィキペディアでは
長安(現西安)に生まれたが、祖先はインド出身である。 玄宗の時代に太史監(国立天文台長)に任じられた。1977年に西安で発掘された墓碑によると、瞿曇家は唐朝成立以前に中国に住み始めており、以後代々中国で生活をしていたと推測されている。
開元年間に占星術書『開元占経(中国語版、英語版)』を編纂し、占星術や天文学の資料を整理した。『開元占経』にはインドの天文暦書(シッダーンタ)を漢訳した『九執暦』が含まれている。開元6年(718年)にはインド数字の〇(零)を中国にもたらし、計算方法に変化をもたらした[2][3]。
キトラ古墳も中国・朝鮮を見てるだけではだめだろうということでした。
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