2022年5月8日日曜日

川原寺は瓦寺か?

 「かわら」と読めば、似ています。 瓦の読み方ですが、瓦は梵語(Kapara)のようです。 国語に入った梵語

仏教が朝鮮半島から渡来したと言われますが、瓦も同時にやっってきたはずです。グーグル翻訳で見ると瓦は 韓国語では、기와(giwa)のようです。似てますが、梵語からは少し変化してるように感じます。日本語と梵語の関係よりは似ていなくて、瓦は朝鮮半島経由ではないとした方が良いと思います。 ちなみに中国語では瓦(Wǎ)です。これが音読みの「が」になっているようです。『日本書紀』の仏教の百済渡来の話はあやしいと思います。

「川原寺は瓦寺」に戻りますが、川原寺では塼仏が発見されています。 この塼仏も粘土板から作ったと考えれば瓦のようなものです。川原寺は日本の寺院の原型のような気がします(仏教寺院の原型ではないです)。 塼仏がレリーフのように見えることもあります。 以前にも、「川原寺から思うこと」の記事があります。反復学習をしてるようですが、 また『謎の大寺 飛鳥川原寺』、網干善教/NHK取材班、日本放送出版協会 (1982/6/20)を借りてきました。

51頁に

和銅二年(七〇九)十月二十五日といえば、都が藤原京から平城へ遷都される前年であるが、先にもあげたこの時の『弘福寺田畠流記帳』によると、弘福寺は田が一五八町四段百二十一歩、陸田四十九町七段三歩、大和国はもちろん河内、山背、尾張、近江、美濃、讃岐国に寺領をもっていた。

とあります。弘福寺は川原寺の法号のようです。尾張とか美濃の寺領は、天武天皇との関係で意味がありそうです。

この本には写経のことが述べられています。72頁の「写経と川原寺」に

『日本書紀』天武天皇二年(六七三)三月の条に
 この月に、書生を衆へて、始めて一切経を川原寺に写したまふ。
という記事が見える。意味は天武天皇二年三月、川原寺において書生(写経をする人)を集め、はじめて一切経を写経させたということである。恐らくこれがわが国において一切経の写経であろう。

とあります。孝徳天皇の時代に一切経を読ましむとして存在したとのことですが、74頁には

ところでッわが国での写経は、いわゆる「天平写経」と称されるように奈良時代に盛んになった。

とあります。日本書紀が編纂された時代の影響があるように思われます。この時代に写経はあったのか。もちろん、川原寺で行われた一切経の書写は現存しないようです。天武天皇の時代の仏教的な話は信用できるのかということになります。

また、76頁の「伎楽と川原寺」の項で

『日本書紀』天武天皇朱鳥元年(六八八)四月庚午(十三日)の条に
新羅の客等を饗たまはむが為に、川原寺の伎楽を筑紫に運べり。仍りて皇后宮の私稲五千束を以て、川原寺に納む。
という記事がある。これによると川原寺に伎楽団が置かれていたことが知れる。
伎楽は妓楽とも書かれ、これを「ぎがく」と読んでいる。しかし本来は呉楽と書いて「くれのうたまい」と読んでいたようである。「呉」というのは現在の中国、さらにはもっと広く「西域」の地域を含めての総称である。それでは、なぜわが国では呉楽を伎(妓)楽としたのだろうか。理由は簡単である。伎(妓)楽を必要とするのは仏教行事であり、具体的には仏教儀式のなかでの供養の一種であった。・・・・
さて、このような伎楽は、いつわが国に伝来したのであろうか。『日本書紀』推古天皇二十年(六一二)是歳の条に
又百済の人味摩之《みまし》、帰化けり。曰く、「呉に学びて、伎楽の儛を得たり」といふ。即ち桜井に安置らしめて、少年を集へて、伎楽の儛を習わしむ。・・・

この呉がどこかということでいろいろな説があるようです。百済の人味摩之というのもあやしい感じです。百済の地が日本の支配下にあったという『日本書紀』の文脈で語られているような気がします。 この本では川原寺の塼仏は三尊仏であることから、源流はガンダーラに繋がるという展開になります。塼仏は中国では瓦仏というようです。梵語からきてるようです。源流はインドであることは間違いなさそうです。

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