岩城山城から他の城もどうだろうと思い、 『よみがえる古代山城』、向井一雄、吉川弘文館、2017年 を図書館から借りてきました。171頁の図に分布があります。以下の図はコピーしたものです。
同様の図は11頁にあり、分布の特徴が述べられています。 大陸からの侵攻ルートに沿う防衛ルートと考えられているが疑問が多いとし、疑問点が述べられています。- 王都のある近畿に高安城一城のみ。
- 九州の防衛ラインが有明海側に偏っている。
- 海沿いにないところもある。
どこかに書いてあったか、個人的に感じたこととして - 淡路島にない。
- 安芸国にない。
- 日本海側や太平洋側の国にない。
があります。山城の統一性が感じられず、それぞれの地域にまかせられているようで、統一的な防衛ラインとは思えません。
天武・持統朝には吉備・周芳(周防)・伊予・筑紫などに数カ国を管掌する大宰・総領が置かれた。
と書かれていますが、
大宰・総領は基本的には行政官だが、壬申の乱時の吉備国守への出兵要請にもみられるように、軍事的権能を合わせ持っていたと思われる。
ともあります。山城の築城に当たって、軍事面だけでなく、経済的な地域負担を考えると、これらの地域は地域国家的なものと考えるべきということだと思います。各地域がかってに防衛を考えていたいうことです。もう少し言えば、吉備国の周囲の国に山城がありません。周辺から包囲されていて、その防衛のために山城を備えた風に見えます。ヤマトと出雲の安芸側からの挟撃に備えています。この時点で淡路島もヤマトがわの拠点になっていたことが想像されます。図のグレーの国は、ヤマトに対抗する勢力を示しています。これらの国に共通するのは有明海や瀬戸内海などの海洋を基盤としています。孝徳朝の前期難波宮も水域がベースにあります。また天智朝の近江の琵琶湖がベースです。天武朝からの駅路建設の水路から陸路への転換前を示している図に思えます。
吉備大宰-鬼ノ城、周芳総領-石城山城(いわきさん)、伊予総領-永納山城(えいのうざん)のように対応関係が指摘できる。
瀬戸内海の古代山城を特徴づけるコの字型門礎石は上記の鬼ノ城、石城山城、播磨城山城、讃岐山城に分布しており、その分布は大宰・総領が敷かれた地域と重なる。コの字型門礎石には未製品や据え付け前の状態で放置されたものが多い。いつ頃、工事が中止となったのか、壬申の乱後の可能性もあるが、大宰・総領との関係を考えれば藤原京段階だろう。
孝徳天皇の父が茅渟王、母が吉備姫王で、孝徳天皇が吉備と河内の連合政権として前期難波宮を造り、その後に天武天皇のヤマトの勢力(出雲との連合)に押されていったとすれば、
前期難波宮→飛鳥浄御原宮→藤原京の流れが理解できるようになります。
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