2021年2月13日土曜日

熊本県の部民

  以前に『岡山県の歴史』を見ていて、気になったことがあります。部民制ですが、 『熊本県の歴史』、松本寿三郎・板楠和子・工藤敬一・猪飼/隆明、山川出版社、2012年第2版 にも同じく部民のことが書かれています。  この本には、二十二頁「ワカタケル大王と部民」のタイトルのところです。次の文から始まります。

雄略天皇(ワカタケル大王)は、五世紀代に仁徳王朝の姻戚として栄えた葛城氏を滅ぼして王位を獲得した。

雄略天皇→天武天皇、仁徳天皇→孝徳天皇、葛城氏(諱は葛城)→天智天皇と対応するので、驚きました。江田船山古墳出土太刀の話が出てきて、時代がいつの話か混乱しかけますが、とにかく地名に部のつくものがこの地域に残っていて、

白髪部は、雄略の子、清寧天皇(白髪大倭根子、白髪武広国押稚日本根子天皇)の名代部である。しかし延暦四(七八五)年桓武天皇の父光仁の諱「白壁王」に通じるのを避けて「真髪部」と改名された。

 雄略の子の清寧天皇も大津皇子と考えれば、部民も7世紀後半の話で、肥国がヤマトの勢力下におかれたことになります。磐井の乱のことも出てきますが、7世紀後半に実際になにかしらの争乱があり、この時代の影響で地名に残っていると考える方が理解しやすいです。地名の話を五世紀(の雄略紀)の話とするのは現実的ではないように思われます。
 ヤマトの勢力が7世紀後半に吉備や肥国を併合していった過程が表されていて、分配していったのが部民制で、それが反ヤマトの地域に残った痕跡で、その後、すぐに時系列で部民制から律令制に変わっていったと考えます。妥当な考えかどうか今後の課題です。これは長屋王の時代まで継続していた可能性もあります。

 部民について分かってなかったので、ウィキペディアを以下にコピペします。

部民制(べみんせい) 王権への従属・奉仕、朝廷の仕事分掌の体制である。名称は中国の部曲に由来するともいう[1]。その種類は極めて多く、大きく2つのグループに分けることが出来る。1つは何らかの仕事にかかわる一団で、もう1つは王宮や豪族に所属する一団である。

その中で

子代(こしろ)・御名代(みなしろ) 王(宮)名のついた部。舎人(とねり)・靫負(ゆげい)・膳夫(かしわで)などとして奉仕する。刑部(おさかべ)・額田部(ぬかたべ)などの例がある。御名代には在地の首長の子弟がなる。子弟たちはある期間、都に出仕して、大王の身の回りの世話(トネリ)や護衛(ユゲヒ)、食膳の用意(カシハデ)にあたった。

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