2017年12月10日日曜日

現時点の確認2


 ・唐風化する天皇
 平安時代初期では、桓武天皇と嵯峨天皇が重要とのことです。桓武天皇では、勘解由使の設置と健児の採用とが出ています。坂上田村麻呂らを派遣した蝦夷の戦いなど勉強不足で良くわかっていません。
 ・終わらない日中交流
 八九四年、遣唐使の廃止であったのが、停止・中止と記述が変わってきているそうです。鎖国的な状況とは考えられず、民間レベルの交流は拡大したと考えられているそうです。今、手元にある本(a)で、最澄の後継者・円仁《えんにん》のところに遣唐使で密教を学ぶため、五台山巡礼をしていて、その旅行記をライシャワーが世界に紹介し(一九九五年)、その後、駐日大使となったそうです。その後、円珍が八五三年、唐の貿易商、欽良暉《きんりょうき》の船に乗り、途中、暴風雨で台湾に漂着したりがあったが、福州に着岸したそうです。円珍は、唐から多くの品(四四一部1千巻)を持ち帰り、五四歳の若さで天台座主(第五世)になったそうです。円珍没後に、円仁と円珍の弟子たちで派閥争いが起こり、山門と寺門(天台別院園城寺)に分裂したそうです。話がずれてきましたが、遣唐使だけが日中交流ではなかった例としてメモっておきます。
 ・貴族社会を支える受領《ずりょう》
 律令国家の地方行政は、都から派遣される国司によって運営されていた。九世紀後半には、国司の最上席の受領に権限が集中することになる。一〇世紀には、受領は任国内の田地を「名」と呼ばれる徴税単位に編成し、有力農民をそれぞれの名の納税責任者である「負名《ふみょう》」にして、租税の納入を請け負わせた。これを「負名体制」と称している。とのことです。負名体制の成立によって地方豪族の執務場所の郡家《ぐうけ》が衰退し、受領の執務場所である国衙《こくが》の重要性が増したとのことです。受領とか全く知りませんでした。負名というのは、「名」という文字を使っていて名字と関連してるはずです。完全に抜け落ちてました。勉強不足を痛感しています。今後の課題です。
 ・更新される摂関政治論
 「重視される母后《ぼごう》の力」というタイトルで、天皇の外戚《がいせき》が後見《うしろみ》として大きな発言力を持ったと一般に考えられているが、天皇の生母である母后の役割の大きさにも注意が向けられるようになってきている。とのことです。これに関して、図説日本史通覧には奈良時代に妻問婚《つまどいこん》のコラムがあります(六九頁)。奈良時代に女帝が多いのも婚姻形式に原因があるように思えます。どうして貴族社会で婿入婚《むこいりこん》になったのか、ややこしすぎる気がしてきました。
 「維持された太政官の機能」のところでは、摂関期においても、太政官は最高機関として機能しており、摂政・関白が好き勝手したというのは過去のイメージであるとのことです。
(a)近江から日本史を読み直す、今谷明 著、講談社現代新書1892

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