2020年2月15日土曜日

白村江の戦いと天智天皇

『日本書紀』は、中国の唐に対して日本の由緒を示すために書かれたものであると考えている。従って、天智2年に朝鮮半島の白村江での戦いで、日本・百済復興軍が唐・新羅の連合軍に負けており、如何に記述するかが重要となってくる。つまり無視することは出来ないし、また日本側に都合良く記述することも許されない。当たり障りの無い扱いで、後の壬申の乱とは扱いが全く異なっている。この戦いの記述は少なく、戦争責任について述べていないように感じるところである。後の時代に、朝鮮での戦いとして、文禄・慶長の役がある。これは秀吉の朝鮮出兵であったが、大失敗であった。秀吉の死後、すぐに撤退が始まっている。結局、戦争責任の追及問題から、五大老・五奉行体制が崩れ、関ヶ原の合戦が起こり、それだけで終わらず、秀吉の子の秀頼の時代に豊臣家が滅亡することで決着がついている。これと同様で、天智天皇にも戦争責任があり、壬申の乱がおこり、最終的に天智天皇の子の大友皇子の近江朝廷が滅亡することで決着がついたとのアナロジーが考えられる。『日本書紀』では、天皇と戦争の関係であるが、斉明天皇が筑紫の朝倉宮で崩御され、この時は天智天皇は、皇太子で称制して、そのままの状態が続き、ようやく天智7年に即位され、形式的には戦争時には天皇はいないことになっていて責任者不在になっている。実質的には白村江の戦いの指揮を天智天皇がとっていると考えられるので、壬申の乱で子の時代に責任をとった形である。天智天皇の時代は多くが隠されて過小評価されているように感じ、実質的にはそうではないように思えてきた。以前のこのブログ記事では、単に皇太子で、戦争担当者にすぎないと考えていた。これは、近江朝廷の都の規模が小さく見え、それほどの勢力ではなく、仮の都のイメージを持ってしまったための間違いである。そうではないであろう。孝徳天皇→天智天皇→天武天皇と続く中で、革新性を引き続いて持っていたはずである。

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