2020年2月19日水曜日

『日本書紀』の考え方の追加

下記の本からの理解である。
3ページに『日本書紀』の史料的性格について述べられている。
『日本書紀』はこの世の始まりから持統朝までを記述する。全三〇巻。系図一巻が附属していたが失われた。舎人親王の下で編集が行なわれ、元正朝の養老四年(七二〇)に完成、奏上された。とある。また
記述が持統朝までで終わっていることの意味は何か。持統朝の次は文武朝で、文武朝の大宝元年(七〇一)に大宝律令が編纂・施行され、律令国家が名実ともにスタートした。つまり、『日本書紀』はこの世の始まりから律令国家の成立直前までの歴史を総括する、律令国家成立前史なのである。とある。
途中省略するが、
以上のように、『日本書紀』は各部分によって史料的な性格を大きく異にする。したがって、それぞれの扱い方、注意点も異なる。考えようによっては扱いが非常に厄介な史料である。神話は神話として扱わなければならないし、五世紀・六世紀の部分は歴史的事実を慎重に見極めなければならない。また、七世紀の部分は基本線はほぼ歴史的事実にもとづくとはいうものの、それらは国家側の主張。見解であり、中国の古典にもとづく粉飾も認められ、史料批判を厳密に行なう必要がある。
とある。
つまるところ、日本書紀の正統性を主張するのは文武朝であり、それ以前の、孝徳・天智・天武の時代であっても文武朝にとって都合が悪い部分が潤色されるということだと思う。逆に言えば、『日本書紀』と不一致であるところは、遺跡や史料を含めて徹底的に追求しなければいけない。天地開闢以来の歴史を主張する『日本書紀』は、七世紀の部分であっても、基本線は正しいということは言い切れない。
下記の本には、日本霊異記のところで七五ページに長屋王のことが述べられている。
例えば、中巻一縁は長屋王を主人公とする話であるが、そこには「太政大臣正二位長屋親王」と記されている。長屋王は天武天皇の孫であり、天皇の子ではないのでそもそも「親王」は誤りであり、神亀二年(七二四)に正二位左大臣となっているので「太政大臣」も誤りであるとされ、『日本霊異記』のこの説話の事実関係は疑問視されてきた。しかしその後平城京左京三条二坊の長屋王邸から「長屋親王宮鮑大贄十編」と記された木簡が出土したことから、令の規定とは異なり、当時の古代社会では長屋王は「親王」と認識されていたことが判明し、『日本霊異記』の記述が必ずしも誤りではなかったことを証明した。
と書いてある。高市皇子が天皇であれば子である長屋王が親王であることは全然問題ではなく、自然な流れである。『日本書紀』の目的に、持統天皇から文武天皇への正統性を強調することがあるためと思われるが、疑いを持っておかなければならない。

『古代資料を読む 上 律令国家編』
佐藤 信、小口雅史編、(株)同成社、2018年3月発行

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