鹿島神宮が重要なポイントであるとは思っていて、今
「常陸国一宮 鹿島神宮の研究、森下松壽著 茨城新聞社」
を読んでいます。参考文献や註など詳しくて、多分この本がベースになると思います。
常陸風土記のところまでは何とか読んでいきたいのですが、なかなか進みません。
途中ですが、興味ある記述があったのでメモしておきます。
65ページのところですが、義江彰夫氏のものを引用して、「律令の条文も租庸調の制度も知らない一般庶民から、律令国家が租税を収取出来たのは、呪術的な神祇官班幣制度を持てたからである」とのことである。祈年祭(豊年祈願)、月次祭(季節の順調な運行祈願)、新嘗祭(収穫祭)などにより霊力の宿る稲穂などを与え、豊かな収穫から、神々への感謝の気持ちを引き出し、租税を取り立てることが出来たという話である。しかしながら、この制度は8世紀後半には成立しなくなってしまっているとのことです。
これから正倉院展で感じた聖武天皇の話になります。聖武天皇は、天変地異などに対して、対応できない神道による統治の限界を感じていて、仏教に方針転換を聖武天皇は目指したのではとの推測です。天武天皇の時代には各地に神社を配置したのに対して(まだ個人的なイメージです)、各地に国分寺・国分尼寺を建てます。仏教には仏像の具体的なイメージがあり、お経もあり、当時のハイテク技術と一体化しています。政治的な支配は国衙、精神的には仏教というシステムを採用したのだと考えられます。
つまるところ天武天皇の時代は神社によったが、聖武天皇はお寺に変わったということです。これは大きな変化でこの時に崇仏派と排仏派の対立が起こったはずです。ということは、蘇我氏と物部氏の神仏に関する争いとはフィクションで、実際はこの時代のことを反映しているのではなかろうか。聖徳太子から続く時代の話では現実みがありません。また以前に唱えていましたが、推古天皇は持統天皇と考えることに対応して、時代が推移しています。かなりおおざっぱで、日本書紀が書かれている時代に崇仏派の意見が通ることを見越していたのか、後の時代に書き換えられたのか、時系列が厳しくなってきます。今は、ただただ妄想の世界で、クリアにしていかなければと思います。
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