近畿地方説、九州説などがあるようです。意識していませんでしたが、安田仮説からどうなるか考えてみました。
1.漢委奴國王の金印が福岡県で見つかった。後漢書により建武中元2年(57年)とされる。
1世紀に九州に存在した。
2.「魏志倭人伝」により2~3世紀に日本列島に邪馬台国が存在したとされる。
3.7世紀には畿内で統一された。ただし安田仮説では支配地域は近畿以西である。
4.12世紀になり鎌倉幕府で関東地方まで領域が広がったこと。
という4項目です。
安田仮説では、首都がおおよそ西から東へ移っていると考えています。
ここで邪馬台国が近畿地方にあるとすれば、7世紀にはもう少し東に拡大しているはずで、七世紀の支配領域から考えにくいです。移動する時間を考えれば、九州に存在する方が常識的です。早く東進したとして吉備にも行かないぐらいではないかと思えます。そして奈良時代、平安時代から鎌倉時代まで400年くらい西から東への移動に時間がかかっています。
3.ですが、百済滅亡で来た渡来人により、日本語の文字化が進み、その結果としての名字が影響下のある地域、西日本で共通化したこと。その後、中部地方・関東地方へ軍事的な進出とともに文化的な政策として万葉仮名などの文字の強制があったのでは。それが、万葉集の東歌などでわかるように、大伴氏が軍事・文化の両方で役割を果たしたのではとの想像です。
暗黙の了解的な話ですが、九州→近畿→関東と西から東へ移動していくのが日本の歴史だと考えているので近畿地方説はとりにくいです。
参考にブログ最初の頃の記事にリンクしておきます。この中の日本地図が安田仮説の原点です。
三関(2)
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