安田仮説は本のタイトルのつもりでした。内容は安田という名字についての仮説です。 名前の発生が七世紀ごろと考えられ、この時代をきちんとしないといけないということで、古代史に首をつっこむことになりました。内容は昔と今では言ってることが違うことも多いです。現時点の考え方は以下のようなものです。 1.聖徳太子や推古天皇はいなかった。蘇我・物部の争いもなかった。 2.大化改新もなかったが、その後の話の展開で必要とされたのだろう。 3.血縁関係はどうだかわからないが、孝徳天皇・天智天皇・天武天皇・持統天皇は存在しただろう。天智天皇と持統天皇には親子関係があることは否定しない。 4.遣隋使を送った倭国は「大和」にはなく「吉備あたり」だろう。 5.天武天皇は渡来系の人で、出雲国譲りは天武天皇(大海人皇子)の時代のことだろう。 6.日本書紀は中国の「唐」向けの文書で、八世紀初めの日本の立場を良くしようとするために潤色が多くあるのだろう。 ・・・・・・
2015年1月5日月曜日
伊勢神宮2
伊勢神宮の内宮・下宮の位置関係について考えていましたが、もともと下宮があるところに内宮が割り込んできたような雰囲気があります。最近ネットで検索するときに学習効果か?偏向してきているような気がしますが、太陽の道というのが出てきます。北緯34度32分のラインにアマテラスに関連した遺跡が数多くあるそうです。内宮・下宮の位置関係を解決できるものではないように思いましたが、藤原京というのが出てきました。ウィキペディアによれば、690年(持統4年)に着工され、飛鳥浄御原宮から694年(持統8年)に遷都した。とのことです。同じく伊勢神宮の式年遷宮が始まったのが持統天皇4年(690年)です。国家体制が整えられる中で出てきたもので、伊勢神宮が藤原京のおおよそ東にあるのは偶然ではないように思います。
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