日本史通覧の分布図を見て、興味を持ちました。
関連して、銅鐸の絵を読み解く―歴博フォーラムを図書館から借りてきました。
その初めにのところ以下のようです。
銅鐸とは2000年前の祭りのカネです。近畿を中心として西は中・四国、東は中部にいたる範囲では、弥生時代-本格的な水田で稲を作り始めた最初の時代-に銅鐸を使い、しかもそれを山や丘の斜面などに穴を掘って埋めています。古い銅鐸は、たしかに鳴らした証拠をとどめています。しかし新しい銅鐸は、大きくなり紋様で飾り立てており、本来のカネから離れて、目にも立派な姿へと変貌しました。「聞く銅鐸」から「見る銅鐸」に変わったのです。・・・・
この本は1997年なので、「見る銅鐸」には違和感がありますが、現在も考えられているようです。
銅鐸は当時のハイテク製品と思います。最新の文化・文明が表されていて、それが各地へ伝達されていったはずです。銅鐸に描かれている絵も先端技術を示していると考えて良いと思います。
高床式の倉庫のような家屋、上記の「絵を読み解く」本にもありましたが、鹿は占いに必要な重要な動物のように書いてました。そうであれば本には書いてませんが、スッポンも実は亀で亀甲の占いに通じます。占いもハイテクだったと思います。カタカナの「エ」に似た道具も機織りの道具で、機織りの新技術を示しているのかもしれません。トンボも「田の神」で豊作をもたらす象徴であるという考えがあるそうです。新しい農耕技術のシンボルの生物です。素朴なスケッチではないだろうということでしょう。と思ったのですが、銅鐸に示される他の生物、トカゲやカマキリ、サギなども何かしらの意味があるはずですがわからないので、残念ながら断定できません。銅鐸は謎だらけです。
さて、日本史通覧の分布図(P.34-35)に戻ります。銅鐸には近畿式銅鐸と三遠式銅鐸と違いがあるようです。三遠式とは三河・遠江のことで、東海地方に政治的・経済的にまとまりのある地域があり、また近畿地方にも四国や和歌山県などでまとまりのある地域、国のようなものがあったと考えられます。この図では、岐阜県には銅鐸の分布があまり及んでいないように見え、まだまだ未開の地であり、安田仮説と整合性はあります。図では近畿式は四国を含んでいて、海辺に近い地域で海上の交易が盛んであったことを伺わせるものです。分布も陸路が限られた地域でつながりがあったようにも見えます。(この図は集英社「日本の歴史②」からとなっています。)
何を言ってるかわからない文章になってしまいました。完全な個人メモです。
似たような銅鐸分布図
こちらの図では陸路とかはわかりません。図によって微妙に違い、思い込みかもしれません。
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