図書館でたまたま手にとりました。『日本の歴史②倭人争乱』、田中琢著、集英社、1991年7月です。前の記事(雄略天皇=天武天皇?)の続きです。
305頁に著者が衝撃を受けたという、1964年刊行の『日本考古学の諸問題に掲載された「吉備政権の性格」。筆者、西川宏氏は、吉備政権と倭政権との対立があり、吉備側は鎮圧されたという。ここで、『日本書紀』の三つの「吉備の反乱伝承」を取上げている。
1,雄略七年八月、反抗の意志ありとて吉備下道臣前津屋とその一族七〇人を誅殺した。
2.同じ年に、吉備上道臣田狭の妻の稚媛を奪った。田狭を殺したという話もある。
最後は雄略の死の時である。次の清寧天皇に話が続く。
3.吉備稚媛の生んだ雄略の子の星川皇子がクーデターを起こすが失敗、敗死する。吉備上道臣らは星川皇子を救おうと軍船四十艘を引いて応援に行くが、星川皇子の敗死を知って引き返した。清寧天皇は吉備上道臣らの責任を追及、所領を奪った。
吉備とヤマトの間で武力抗争があったということで、雄略天皇を天武天皇と考えた場合に、以前のブログ記事(出雲について:出雲と連携して吉備と対立の話)につながります。
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