2020年11月28日土曜日

雄略天皇=天武天皇?

 辛国神社の由緒で、雄略天皇の創建とありました。どうも雄略天皇=天武天皇ではないかという気がしてきました。

 万葉集に雄略天皇の歌があります。これは万葉集編纂の時代に昔と言えば雄略天皇の時代であったので、最初に置かれたと言われます。そうかもしれませんが、万葉集は大伴家持の編纂と考えれば、大伴氏が名前の通りであれば、伴臣のトップの氏族で、従ったのは天武天皇であったということです。雄略天皇がいろいろな天皇の複合したものとしても、主に天武天皇だと考えていたことで、敬意を表して、最初に雄略天皇の歌が置かれたのではないかと思われます。
 日本書紀には、雄略天皇即位の時に、大伴連室屋・物部連目を大連にされたとあります。大伴氏が抜擢されたということです。雄略紀を天武天皇と思って見れば、そうかもしれないと思ってきます。
 書紀では、元年春3月、草香幡梭姫皇女を立てて皇后とされた。この月に三人の妃を立てられた。元妃《はじめのひめ》は清寧天皇と稚足姫皇女とを生んだ。この皇女は伊勢大神の祠に仕えた。とあります。大来皇女は天武天皇2年(673年)4月14日に父の天武天皇によって斎王制度確立後の初代斎王(斎宮)とされますが、雄略天皇=天武天皇、稚足姫皇女=大来皇女に対応しているように思われます。元妃は韓媛《からひめ》というというのもひっかかります。
 清寧天皇=大津皇子であろうかというところが違うように見えます。しかし、清寧天皇のところの記述で、雄略天皇の後に後継争いが起こり、大津皇子とは異なり、天皇になりますが、早世してしまいます。日本書紀の願望で、大津皇子を天皇にしたかったのかもしれません。天武天皇亡き後の争い、葬儀の様子などはある程度示しているように感じます。

 雄略紀はボリュームが多くて、細かい逸話的な話が多く水増しの感がありますが、古い時代の話ではなく、天武天皇の時代の話をアレンジして、盛り込まれているような気がします。天武天皇の時代として読んでも違和感はありません。

 葛城山での一事主神に会うとの話も天智天皇と天武天皇の話に思えてきました。
  雄略天皇と葛城の一言主

新編日本古典文学全集3、日本書紀②雄略天皇、清寧天皇のところを見てます。

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