大宝二年の中国と日本で記述しましたが、遣唐使が朝貢使であり、当時の日本を説明したものが日本書紀であったとすると、中国の仏教的な世界観を意識したものになったと考えられます。天皇の仏教への関わりがどうかを見ておきたいと思いました。
・舒明天皇
仏教的な記述はほとんどないが、十一年十二月に百済川の傍らに九重塔を建立、十二年五月に設斎(仏事のことらしい)を行い、恵隠僧《えおんほうし》を招請して、無量寿経を説かせた。とあります。十三年十月に崩御されるので、申し訳程度の記述になっています。
・皇極天皇
皇極元年に、秋七月に、諸社《もろもろのやしろ》を神を祭るが効果なしとて、蘇我大臣が仏教により雨を祈願したが、微雨であったので、読経は中止になり、八月に天皇は南淵に行幸し、祈ったところ大雨になったとあります。これは神道的なものと思われます。ところが天皇は九月には大寺を建立しようとあります。蘇我氏の滅亡に至る過程を記述するため混乱しているように見えます。皇極三年、中臣鎌足は神祇伯《かむつかさのかみ》を固辞して任につかずとあり、潤色とのことです。七月には、大生部多《おほふべのおほ》が村人に常世の神を祭ることを勧め、そのため貧困になったので、秦河勝が討ったとあります。そして、理解しがたい話の後に、蘇我氏滅亡の項になります。天皇は軽皇子に皇位をお譲りになり、中大兄を皇太子とされます。皇極天皇も仏教にそれほど関与していないように描かれています。
仏法を尊び、神道を軽んじられたとはっきりと記述されます。実際には神道的な部分が含まれているようです。
・斉明天皇
皇極天皇が皇極天皇は譲位し、また重祚して斉明天皇になられています。斉明元年五月に、竜に乗って空飛ぶ者が西に向かって馳せ去ったとあり、よいイメージではありません。斉明三年には須弥山の像を飛鳥寺の西に作り、また盂蘭盆会を営んだとあります。後半には百済滅亡から百済救援の話になり、天皇の征西で朝倉宮に遷り、崩御されます。この時に朝倉山に鬼が現われ、喪儀を見守ったとあります。仏教にそれほどの関与はなさそうな記述です。
・天智天皇
皇太子時代で称制と百済救援の話で、仏教はでてきません。白村江の敗戦の後ですが、天智六年に近江に遷都。天智七年に天皇に即位。仏教的な話は出てきませんが、天智十年十月に諸々の珍宝を法興寺の仏に奉納された。とあります。十二月には近江宮で崩御されたとあります。
・天武天皇
天文・遁甲にすぐれておられたとあります。遁甲とは術数の一種、陰陽の変化に乗じて人目をくらまし身体を隠し、吉を取り凶を避ける術。最初の部分ではあまり仏教とは関係なさそうですが、出家して吉野に入るとあるのでそうでもないように記述されます。天武二年三月に、書生を集めて、初めて一切経を川原寺で写させた。四月には、大来皇女《おおくのひめみこ》を天照大神宮《あまてらすおほみかみのみや》に遣わして仕えさせようとお考えになり、泊瀨斎宮《はつせのいつきのみや》に住まわせた。とあります。十二月には神官の語が見える。これは大宝令制の神祇官の前身宮司とのこと。これ以降、神仏が混ざっているように思われます。最後の方は、やはり神道ではなく仏教的な記述が多くなるように感じます。
・持統天皇
特に、神仏については述べられていませんが、天武天皇のために、無遮大会《むしゃだいえ》を五寺、大官・飛鳥・川原・小墾田豊浦・坂田で営んだ。とあります。無遮大会は全ての人に布施する仏事で、この後も仏教を前提とする話になっています。持統四年の即位の時には、神祇伯中臣大島朝臣が天神寿詞《あまつかみのよごと》を読んだ。とあり、神事であるようです。しかしながら持統五年二月には天皇は「天武天皇の時代には仏殿・経蔵を造って、毎月六斎を行なった。・・我が世もそのようにしたい。それゆえ誠心誠意仏法を信奉せよ」と仰せられた。とあります(朱鳥元年一二月)。これ以降は見ていませんが、基本的には仏教を取り入れているというアピール感はあります。
パラパラと次の本を見ています。
『日本書紀➂』、新編日本古典文学全集4、一九九九年第一版第二刷発行、小学館
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