大まかに、藤原京→平城京→平安京と遷都されます。藤原京から平城京へは、遣唐使によって、唐の影響が強くなったと思われ、宮城の場所が、北の方に移動します。そして仏教が鎮護国家思想のもとに強化されます。感覚的ですが、藤原京では神道(ちょっと自信がなく道教的なものもあったかもしれない)から平城京の仏教に変化したように見えます。この時代も祭政一致の時代ですが、その元となる宗教が変化していると思われます。天武天皇から持統天皇は神道(道教?このあたり全然理解していません)であり、文武天皇からは仏教になります。称徳天皇(孝謙天皇の重祚)の時には神仏習合が進んでいますが、平安時代になりはっきりとします。天武天皇の時代から持統天皇~称徳天皇へと変質してきた体制に神道的な勢力と考えられる賀茂氏や出雲の勢力が平安京遷都に大きな役割を果たしたという気がします。京都の地名に出雲路がつくところがあります。これは出雲への道を示すものと考えられます。
わかりにくい図ですが、下鴨神社から西側(図の左方向)に賀茂川を渡る橋が出雲路橋です。この賀茂川に沿った道が、加茂街道で、道沿いに出雲路のつく地名があり、この道が出雲路であったと思われます。ついでですが、賀茂川を上っていくと雲ケ畑と言う地名のところがあります。この「雲」は分かる人には出雲の意味だと分かっていたのではないかと思います(注1)。出雲路は、平安京遷都の時代から出雲へのルートとして存在し、出雲の勢力が遷都に関与していたことの印になると思います(注2)。「畑」は秦氏であるとまでは言えるかはわかりませんが、「出雲のはたけ」的には考えられます。平安京遷都において、奈良仏教を受け入れなかったのも出雲の勢力との結びつきから考えられそうです。
注1
平安時代の「口遊《くちずさみ》」に当時の大きな建物として「雲太、和二、三京」とあり、1位が出雲大社、2位が東大寺大仏、3位が平安京の大極殿ということのようです。大きさについてはわかりませんが、意識として、出雲・奈良・京都を考えていて、出雲をトップにもってきています。出雲の復権がはかられた結果であるように感じます。
注2
『ウィキペディア(Wikipedia)』より
雲ケ畑(くもがはた)は、京都市北区の鴨川(賀茂川)源流域の名称で、同地域にかつて存在した愛宕郡雲ケ畑村(くもがはたむら)があった。
雲ケ畑の名前の由来
岩屋山志明院ゆかりの薬王菩薩が降臨し、疫病退散のためこの付近に薬草を植えた。その草花の咲き誇り、香りたなびく様子が、まるで「紫雲」のようであったとの伝承説がある。他に、出雲氏の作った集落「出雲ケ畑」の「出」が取れたとする説も残る。雲ケ畑の畑は、秦氏と関係があるという説もある。
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