2020年12月1日火曜日

神武天皇=天武天皇?

  素戔嗚尊=天武天皇、雄略天皇=天武天皇とすれば、神武天皇も天武天皇ではないかと思われます。今は、小学館の新編日本古典文学全集2の日本書紀①を見ています。ここでの神武天皇という漢風諡号は淡海三船の撰(釈紀・述義五)とあります。神と天の違いなので同一と考えろよと言われている気がします。神武紀には橿原宮の造営の記事があり、畝傍山の東南の橿原の地に都を造ろうあります。藤原京は畝傍山の東側で少し方向が違いますが、橿原宮のイメージとしているように思われます。橿原宮=藤原京です。詳しく記述されますが、次の綏靖天皇は葛城に宮を定めたとあるが軽く述べただけです。次の安寧天皇は都を片塩に遷され浮孔宮というとあります。神武天皇とは扱いを変えています。

 神武東征についてですが、日本書紀の編纂に百済滅亡の時に日本に逃れてきた人たちがいることが考えられます。その人たちの逃亡ルートが瀬戸内海であろうと思われます。従って神武東征にこのコースが含められることはあり得ますが、天武天皇が渡来人でなかったらこのような話が受け入れられたとは思えません。つまり天武天皇が渡来人であることによって生まれた神話と考えられます。そうすれば出発の地は百済にすべきであろうということになり、日向からのスタートはおかしいことになります。しかし日本書紀は日本を唐にアピールするためのものです。自己完結するためには、百済出発はありえません。神武東征のスタートとゴールも迷走する感じですが、天武天皇の時代の勢力範囲になったところと想像されます。コース中に吉備に三年間滞在します。おそらく軍事行動を起こす場合これぐらいの時間が必要との認識があったと思いますが、吉備を意識していることも吉備との対立があってと想像します。

神武東征について以前に同じようなことを言っています。反復学習なのかもしれません。
神武東征について(H31.03.22時点)


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