雄略天皇の子とされます。雄略天皇=天武天皇として、雄略天皇の第三皇子=清寧天皇、天武天皇の第三皇子=大津皇子と見立てることができます。「清寧」ですが、世の中がやすらかに治まること。 また、そのさま。とのことです。清らか丁寧なイメージを持ちます。清寧天皇には大津皇子のイメージが投影されています。この「清寧」という名を付けたのが淡海三船です。和風諡号は白髪武広国押稚日本根子天皇(しらかのたけひろくにおしわかやまとねこのすめらみこと)、白髪大倭根子命(古事記)です(ウィキペディアより)。日本書紀の長い名前では分かりませんが、清寧天皇とすることで関係がわかりやすくなります。淡海三船の撰とされる懐風藻に大津皇子に仮託された漢詩があるようです。淡海三船の大津皇子に対する思いが日本書紀の清寧紀にあらわれているように思われます。雄略天皇の「雄略」からは英雄と戦略のイメージを淡海三船は持たそうとしています。これは天武天皇のイメージで、大津皇子も清寧天皇にイメージとして投影されていて、淡海三船に近い人がこの部分を担当したような気がしてきました。
逆に言えば、書紀の記述では、淡海三船のような人がいて、それぞれの天皇の部分をその天皇の名前を決定し、それからみんなで分担して記述したのではと思われます。天武天皇→雄略天皇、大津皇子→清寧天皇ということです。まだよくわかりませんが、天武天皇も、別名の神武天皇や雄略天皇にして天武天皇の事績を基に天皇の名に合わせて記述されたということです。このような記述をすると、現実との辻褄あわせが出来にくくなります。つまり雄略天皇の話、清寧天皇の話と続ければ、どこかで打ち切らないといけません。つなぐための工夫がいります。これが例えば継体天皇とかになります。「継体」も体制を継ぐ天皇の意味になります。以前に、孝徳天皇=仁徳天皇としましたが、孝徳天皇の事績を見るときに(難波宮の話など)、仁徳天皇を参照することがありましたが、「徳」で共通化して見るように淡海三船はいろいろ考えてくれていたと思って来ました。
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