山川出版の県史33『岡山県の歴史』の最初のところを見ています。3頁10行目からの引用です。
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『記・紀』に見える吉備国は政治的にも文化的にも大和朝廷に対峙する勢力圏を一時的には形成していたようである。崇神朝における四道将軍大吉備津彦命と若日子建命ら兄弟の派遣、仁徳天皇と吉備の黒比売との相愛の神話も名高い。歌枕で有名な吉備の中山から総社市にかけて、今、観光で有名な吉備路があある。周辺には弥生遺跡、日本で四番目に大きい造山古墳に代表される古墳群、備中国分寺と国分尼寺跡、七世紀後半と推定される吉備の山城・鬼ノ城など、古代吉備王国の繁栄をしのばせる史跡がるいるいと連なっている。・・・ーーーーー
その後の引用は端折りますが、吉備津彦神社と吉備津神社、桃太郎と地域神話について書かれています。
鬼退治の話では、
平安時代の『梁塵秘抄』の一節に「一品聖霊吉備津宮、・・・艮みさきはおそろしや」と文献での鬼退治の初見である。一品聖霊吉備津宮とは一品の神階をうけていた備中一宮の吉備津宮をさし、「艮みさき」とは当社本殿の東北(鬼門)を守護する丑寅御前のこと、と神話の説明があります。吉備津神社の東北の方向に吉備津彦神社が位置していて、対立関係があったのかとかの意味を持つようにも思われてきます。
先の引用に戻って、崇神朝の「崇神」ですが、この意味は神を崇拝するというイメージではないかと思われます。天皇で神と結びつくのは神武天皇ですが、結局は天武天皇です。天武天皇の時代に神道が形成されたと思っているので、崇神天皇にも天武天皇の時代が盛り込まれている可能性があり、吉備と大和の対立は天武天皇の時代であると思われてきます。崇神天皇は、「はつくにしらすすめらみこと」ともあります。神武天皇と同一と考えてもよいとも思えます。
また仁徳天皇ですが、孝徳天皇の母は吉備姫王で、吉備の黒比売の話とつながります。吉備との関係からも、仁徳天皇=孝徳天皇を示しています。七世紀の出来事を古い時代にいろいろ移しているのではということです。これは古い時代に何かしらの事実があって、話を具体的にするために七世紀の物語で表したのではなくて、七世紀の話をそのまま古い時代の話としたと考える方が良いように思われます。
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