2020年12月20日日曜日

紀国造と紀州徳川家

  紀国造は天武天皇の時代の話です。紀州徳川家は徳川御三家の一つです。どちらも紀州を重要視していますが、共通項があると思います。

 御三家は尾張、水戸と紀州ですが、将軍家が断絶した時に、養子を出すとのことです。尾張や水戸は江戸の防衛に対して有効ですが、紀州は西日本から江戸に向かう場合に大坂を通るコースであまり意味が無いように思えます。豊臣のあった大阪城を監視するためということでしょうが、理由としては弱い気がします。家康には信長の時代の石山本願寺攻めの記憶が元になったことが想定されます。元亀元年(1570)に信長と三好三人衆が戦っているときに、打倒信長で決起したことから石山合戦が始まり、天正八年(1580)に和議が成立し、本願寺明け渡しまで十年かかっています。信長は本願寺周りに付城を造り兵糧攻めに出るが、海上封鎖が完璧で無く、毛利などの援助があり、本願寺との争いに時間がかったようです。本願寺の方の信長包囲網を構築するのに対し、信長は、四国の長宗我部、九州の大友宗麟と結びつくのも太平洋側の航路によって連絡を取れたのだと思われます。紀州は西日本の太平洋側の重要拠点であったと家康は認識しており、土佐藩に家康の功臣とされる山内一豊が配されるのも紀州徳川家と連動しているように思われます。

 妄想になりますが、石山本願寺=難波宮とします。おそらく石山本願寺と同様に孝徳天皇の時代も瀬戸内海の制海権を持っていたはずで、倭国が吉備であって河内との連合政権的な意味で都を難波宮にした。対抗する大和の天武天皇は倭国(吉備)に対して瀬戸内海を避けて他の西国との連携を図るために太平洋ルート確保で紀国を重視したということです。信長も海軍的なものが必要で、伊勢の九鬼水軍に頼ったとされます(村上水軍に頼れなかったので)。天武天皇の時代にも伊勢神宮とかあるので、東方ルート確保のために伊勢との結びつきが強かったことが想像されます。


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