2020年8月19日水曜日

崇神天皇から仁徳天皇にかけての話

 崇神天皇ーー北陸・東海・西道・丹波の四道に「四道将軍」を派遣

景行天皇ーー日本武尊による東国・西国への遠征

成務天皇ーー国内の整備

仲哀天王ーー新羅・高麗・百済の三韓平定

応神天皇ーー三韓の朝貢とともに渡来人の来朝

が語られるという。(『テーマで学ぶ日本古代史 政治・外交編』、最初の四頁くらいにありますが端折ってます)


支配領域の拡大を書紀は述べているわけで、誰にこんなことを言いたいかといえば、朝鮮地域の支配まで述べていることから、これは当時の唐に日本をアピールするためのものでしかないと思われます。

歴史を追って日本の発展を述べていますが、それぞれの天皇に段階ごとに割り振っていて、水増ししているような感じを受けます。日本の統一では、戦国時代から織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の三代にわたって統一された事を思えば、国内統一も短期間に出来たのではないかと思います。

秀吉の朝鮮出兵を考えると、その前提として国内の統一、それを可能にした軍事力を持っていたことがあるわけで、戦国時代には朝鮮出兵の余裕はなかったのが、秀吉の統一後に朝鮮に振り向けることができた状況になったことがあり、例えば江戸時代になって平和な時代になれば、軍事力を行使しにくくなります。タイミングがあるということです。古代でも同様で、白村江の戦いなどで、百済の復興運動に日本が加担するのも日本に余裕があったことがあるわけで、ない袖は振れない状態ではなかった。軍事力を用意できた。なぜできたかといえば、この直近まで国内で統一に向けた戦いが行なわれていて、軍事力の利用が容易であったと想像されます。つまるところ各天皇に割り振った国内の統一の話は、万世一系の天皇の話にするためのものであって、実際には、白村江の戦いの前の七世紀前半・中頃の話を述べている可能性大と思われます。遣隋使があった時点は日本の統一過程(漠然としてですが、古墳時代のゆるやかな連合体から物流システムが整備された統一体のようなものに変化してる?)にあり、日本書紀は遣隋使の経緯を正確には記述していないことから、政権主体が変わっているのではということになってきます。


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