2020年9月28日月曜日

歴史は繰り返す、憲法

  日本国憲法には基本的人権の尊重・国民主権(民主主義)・平和主義の三つの基本原理があるとされる。最後の平和主義は、ポツダム宣言を受け入れた日本の敗戦により生まれていると思われます。敗戦がなければ、このような戦争放棄の文面を持った憲法はなかったはずです。この憲法の平和主義を具体化するものとして、聖徳太子のお札が使われるようになったと思います。

 ネタ元は日本のお札に最も多く登場した人物は? 本のお札に最も多く登場した人物は?

 この中に

一萬田日銀総裁はGHQに対し、「聖徳太子は『和を以って貴しとなす』と述べるなど、軍国主義者どころか平和主義者の代表である」と主張して、・・・

とあり、戦前二回、戦後五回の発行で、敗戦後増えているので平和主義の理想化された人物の扱いだったと思います。

 日本書紀に、聖徳太子が推古天皇の時代に一七条憲法を作ったということが根拠になっています。もちろん私は創作説をとりますが、要は、書紀の編纂者がこの部分がいらないと考えたら実際にあったとしてもボツになってしまい、歴史から消え去ることになります。必要と考えて記載されているので、日本書紀の強い意図が組み込まれています。なぜ必要とされたかを推測すると、日本国憲法からの類推ですが、八世紀に敗戦の記憶があったのではないかということです。現在も敗戦の影響は続いているように感じます(対米追従外交の傾向が残っている)。当時を考えれば白村江の戦いなどで唐・新羅の連合軍に大敗したことが避けられない事実としてあります。日本書紀が誰に対して記述されているかと言えば、(日本国憲法が、戦勝国のアメリカを意識したように)、唐に対してであろうということにつながります。戦後の聖徳太子のお札のような平和憲法を具体化するものが、日本書紀の時代にあったと思われます。それが法隆寺です。法隆寺については再建・非再建論争がありますが、その元になったのが日本書紀に記された法隆寺の火災の記事(670年?)です。普通のお寺であれば、火災の記事が書かれるとは思われません。日本書紀が重要と認めたお寺なのでこの記事が存在するのだということです。聖徳太子の実在の証拠となる法隆寺を火災により証拠隠滅をはかった可能性もありえます(聖徳太子一族の滅亡も含めてですが)。白村江の戦い(663年)のあとの復興のシンボル的な意味を持たしたことも想像されます。法隆寺が斑鳩という政治的に重要ではないところに建てられているぐらいの根拠しかなく、今後の課題です。


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