2019年2月3日日曜日

平城京の宮廷ではイラン人の役人も勤務していた

 図書館で、「教科書に載っていない最先端の日本史、現代教育調査班編、青春出版社発行」の一〇一頁にありました。木簡で、平成二八年(二〇一六)一〇月、にわかに脚光を浴びたものがあるという。「破斯清道《はしのきよみち》」の名があり、破斯とはペルシャのことで、現在のイランを指しており、この人物がイラン人であることを示している。問題の木簡には天平神護元年(七六五)に破斯清道という特別職の役人が大学寮の宿直勤務をしたという意味のようなことが書いてあります。奈良時代の宮廷ではイラン人も雇っていたとすれば、稗田阿礼のインド人説もありうる話です。
 ネットでは
「破斯清道」は本当にペルシャ人なのか?「はじ」(土師)とも読めることに気付いた…【平城宮式部省木簡】
平城宮式部省木簡の「破斯清道」(はじのきよみち)は、正倉院文書に出てくる「土師浄道」(はじのきよみち)の17年後の姿の可能性が高まってきました。その正体はペルシャ人では無かったようですが、普通の下級官吏のその後の人生が分かる大事な「発見」になりますね。
とかありました。ペルシャ人では無いようです。しかし、ウィキペディアでは、「続日本紀の天平八年(七三六)八月二十三日、遣唐副使・従五位中臣朝臣名代らが唐人三人・ペルシャ人一人を率いて、帰国の挨拶のため、天皇に拝謁した」とあるようです(続日本紀、全現代語訳、宇治谷孟も見ました)。ペルシャ人では無い可能性は大ですが、まだ稗田阿礼のインド人説は捨て去ってはいません。

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