2019年2月9日土曜日

奈良時代の東北地方の開発


 続日本紀の聖武天皇のところを見ていて(もちろん、続日本紀(上)全現代語訳です)、天平9年(七三七)の4月14日のところです。東北地方のことが書かれています。長いので適当に端折っています。

陸奥国に特節(征夷)大使として派遣された藤原朝臣麻呂の報告です。
さる2月19日に陸奥国多賀の柵(宮城県多賀城市にあり、蝦夷経営の拠点)に到着し、鎮守府将軍の大野朝臣東人と協議し、関東の六国の騎兵を召して、山中と海沿いの道を開かせました。その地の農耕に従事している蝦夷をなだめ諭し、鎮撫しました。その後、五つの柵に人員を配置し、2月25日に将軍東人らが多賀の柵を進発し、3月1日には色麻の柵を発し、その日のうちに出羽国大室駅に到着しました。ここで出羽国守の田辺史難波と合流して賊地に入り、道を開拓しながら行軍しました。ただ賊地は雪が深く、秣(まぐさ:馬や牛などの飼料にするほし草・わら。かいば)が得難く、そのため雪が消え草が生えるのを待って、また改めて軍を進めることにしました。同月11日には将軍東人は多賀の柵に帰還しました。東人が自らあたら新たに開通させた道は、全長160里で(ウィキペディアでは古代日本で553.5mと推定されているらしい)、その間、石を砕いたり、樹を切ったり、谷を埋め、峯を超えて進みました。平坦なところもあったようですが、4月4日、わが軍は平羅保許山《ひらぼこやま》に駐屯した時、その先の雄勝村の服従した蝦夷の長ら3人が来て、降伏するといってきた。それに対し、東人は信用できないと言ったのであるが、難波は建議して、「軍勢を進めて賊地に入るのは、蝦夷を教えさとし、城柵を築いて人民を住まわせるためです。もし投降の願いを無視して侵攻すれば上策ではないでしょう。今回は官軍の威力を示し、引き揚げることにし、このあとで難波が帰順の有利なことを諭し懐かせましょう。そうすれば城郭も守り易く、人民も永く安らかになるでしょう」といったので、東人はもっともであると考えました。また東人の本来の計画では、早く賊地にはいって、耕作し、穀物を貯え、兵糧運搬の費用を省こうということでありました。しかし今春は大雪で、早期に耕作できなくなりました。しかし新道はすでに開通し、後年になって東人が自ら攻め入ることもしなくても事は成就できます。東人は今までの実績があるので、ここは徴発した兵士は一旦帰農させることで直截をお伺い致します。
というようなことが書いてあると私は理解しました。
この当時の征夷大将軍の役割は、道を作るということのようです。道を作り、その横に耕作地を作って、食料を確保し、兵站基地を順に作っていくことが大事であるということです。当国兵五千人とかが文中に見えますが、おそらく大規模な土木工事が行われたように思われます。これは条里制が開発されていく様子をしめしています。道を作り、条里制の田んぼを道の横に作っていき、どんどん版図を拡大していくことがヤマト勢力由来の方法であったということです。この開発された地域に条里制の田んぼを意味した安田という地名が名付けられていったことになり、東北地方の数ある安田の地名はその痕跡と考えられます。青森県の三内丸山遺跡の近くにある安田も、奈良時代以降の東北進出の結果であって、本州の北端にあるのも、偶然できたものではないように思われます。

 道を開拓するとの記述は、
国立国会図書館デジタルコレクション
国史大系、第2巻、続日本紀巻第十二に確認できました。下は画面コピーです。
黄色のマーカーから始まります。ブルーのところが(不細工ですみません)、道を開くというところです。私には読解できませんが、現代語訳の場所はわかりました。



テキストベースの、この部分も添付します。
六国史のテキストデータベース、続日本紀からです。

《天平九年(七三七)四月戊午【十四】》○戊午。遣陸奥持節大使従三位藤原朝臣麻呂等言。以去二月十九日、到陸奥多賀柵。与鎮守将軍従四位上大野朝臣東人共平章。且追常陸。上総。下総。武蔵。上野。下野等六国騎兵惣一千人。開、山海両道。夷狄等、咸懐疑懼。仍差田夷遠田郡領外従七位上遠田君雄人。遣海道。差帰服狄和我君計安塁。遣山道。並以使旨慰喩、鎮撫之。仍抽勇健一百九十六人、委将軍東人。四百五十九人分配玉造等五柵。麻呂等、帥所余三百〓五人、鎮多賀柵。遣副使従五位上坂本朝臣宇頭麻佐鎮玉造柵。判官正六位上大伴宿禰美濃麻呂鎮新田柵。国大掾正七位下日下部宿禰大麻呂鎮牡鹿柵。自余諸柵、依旧鎮守。廿五日。将軍東人従多賀柵発。三月一日。帥使下判官従七位上紀朝臣武良士等及所委騎兵一百九十六人。鎮兵四百九十九人。当国兵五千人。帰服狄俘二百〓九人、従部内色麻柵発。即日、到出羽国大室駅。出羽国守正六位下田辺史難破将部内兵五百人。帰服狄一百〓人。在此駅。相待以三日。与将軍東人共入賊地。且開道而行。但賊地雪深、馬芻難得。所以、雪消草生。方始発遣。同月十一日。将軍東人廻至多賀柵。自導新開通道惣一百六十里。或剋石伐樹。或填澗疏峰。従賀美郡至出羽国最上郡玉野八十里。雖惣是山野形勢険阻。而人馬往還無大艱難。従玉野至賊地比羅保許山八十里。地勢平坦、無有危嶮。狄俘等曰。従比羅保許山至雄勝村五十余里。其間亦平。唯有両河。毎至水漲、並用船渡。四月四日。軍屯賊地比羅保許山。先是。田辺難波状称。雄勝村俘長等三人来降。拝首云。承聞、官軍欲入我村。不勝危懼。故来請降者。東人曰。夫狄俘者其多姦謀。其言無恒。不可輙信。而重有帰順之語。仍共平章。難破議曰。発軍入賊地者。為教喩俘狄、築城居民。非必窮兵残害順服。若不許其請。凌圧直進者。俘等懼怨、遁走山野。労多功少。恐非上策。不如、示官軍之威、従此地而返。然後。難破、訓以福順。懐以寛恩。然則、城郭易守。人民永安者也。東人以為然矣。又東人本計。早入賊地。耕種貯穀。省運糧費。而今春大雪、倍於常年。由是、不得早入耕種。天時如此。已違元意。其唯営造城郭一朝可成。而守城以人。存人以食。耕種失候。将何取給。且夫兵者。見利則為。無利則止。所以、引軍而旋。方待後年、始作城郭。但為東人自入賊地。奏請将軍鎮多賀柵。今新道既通。地形親視。至於後年。雖不自入、可以成事者。臣麻呂等愚昧。不明事機。但東人久将辺要。尠謀不中。加以、親臨賊境。察其形勢。深思遠慮。量定如此。謹録事状。伏聴勅裁。但今間無事。時属農作。所発軍士且放且奏。



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