山田寺に関してです。大化四年三月、蘇我臣日向の中大兄皇子に讒言し、蘇我倉山田石川麻呂は嫌疑をかけられ、天皇は使いを出したところ、天皇に直接申し述べたいと返事があり、天皇は軍兵で大臣宅を包囲させようとしたところ、山田寺に逃げ、自殺したという。皇太子(中大兄皇子)は間違っていたことで嘆き悲しまれたということである。この後に、日向臣が筑紫大宰帥《つくしのおおみこともちのかみ》に任用した。世の人は語らって、「これは隠流《しのびながし》か」といった。とのことです。(新編日本古典文学全集4、日本書紀➂、小学館)
かなり物語風で潤色の多そうなところです。この後に、皇太子の妃蘇我造媛《そがのみやつこひめ》、が父の死に悲しみ死んでしまったとあります。ここで、その子に太田皇女、鵜野皇女《うののひめみこ》がいます。後の人が持統天皇になります。従ってこの部分は持統天皇ベースの内容になっていると思われます。この山田寺も持統天皇の時代になり、手を入れられた可能性はあります。ここでの関心事は、このことではなく、天智天皇七年に、蘇我倉山田石川麻呂の娘がああり、遠智娘《おちのいらつめ》という。ある本に、美濃津子娘《みのつこのいらつめ》という)。とあって、御野津子だったのが、御野《みや》→みの→美濃になったかと書いてあります。書紀の編纂者にとって倉山田石川麻呂が美濃地方と繋がりがあって勘違いしたように思われました。私だけそう感じているのかもしれませんが.。
日向臣が筑紫大宰帥になるというのは、皇太子派が唐との戦いに備えて筑紫を押さえたと考えれば、この時点から孝徳天皇と皇太子の間に、日本の外交政策に対立があったことを示しているのかもしれません。
一応メモ書きです。
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