地域王国を考えると、その地域には有名な神社があります。思いつくものとして、伊勢神宮、住吉大社、吉備津神社、出雲大社、宇佐神宮などです。伊勢神宮は神明造りとよばれ、天照大神を祀っています。持統天皇の時代以降に整備されたと考えています。時代の確定は出来ませんが、日本書紀によれば、崇神天皇の時以来、移動し、伊勢の地に落ち着いたとされます。
伊勢神宮、伊勢神宮2、伊勢神宮3
住吉大社は、住吉造りとよばれ、四棟の本殿があります。主祭神は、底筒男命、中筒男命、表筒男命、神功皇后です。神功皇を持統天皇のモデルと考えれば、伊勢神宮と同様の時期になると考えられます。
住吉大社
出雲大社は、大社造りとよばれ、非対称が特徴のようです。これらの神社は古代より古い形式のように思われ、特異な形式であるとのことです。本殿の建立年代を見ると、吉備津神社本殿が室町時代とされ、宇佐神宮も江戸末期の建立とされ、建築物として古代を考えることはできないようです。しかしいつの時代に形成されたかといえば、持統天皇に時代以降のように思われます。この時代まで、地域王国があり、ヤマトの勢力の神道による統一が行われ、ヤマトには神社をおけず(ヤマトに置けば、全体の神社になってしまい、他の地域がこれをきらったと私は考えますが、根拠はありません)、伊勢に落ち着いたように思われます。律令の時代にあって神祇官という役職があるのも、この流れを引き継いでいて、神社形式も初期のものは統一されていた可能性はゼロではありませんが、地域によって異なっていたのを尊重していた可能性の方が大きいと考えます。
聖武天皇の時代には国分寺・国分尼寺が各地に造られますが(741年に建立の詔)、標準化された形式で、建物などの標準モデルが作成され、配られたようです。また、総本山的な東大寺が奈良に造られ(東大寺盧舎那仏開眼供養は752年)、中央集権体制のシステムとして仏教が重要視されたと思われます。それに対し、七世紀後半の持統天皇の頃と勝手に私は推定していますが(この辺適当なので八世紀前半かもしれません)、神道を主とした国造りでは、神社を造るという基本方針はあるものの、実施の詳細については各地に任されていたように思われます。これは戸籍の見本が正倉院で今まで展示されていて、地域によってかなり異なっていて、戸籍を作るという基本方針はありましたが、実施の詳細はそれぞれの地域に任されていて、地域王国が残っていたように思われてきました。神社の何とか造りというのはいっぱいあって、地域の影響が強く出ていたと思われます。寺についても古い時代には、伽藍配置など多種あったように見えます。七世紀後半は地域王国が残っており、ヤマトの勢力が神道では統一することが出来なくなり、八世紀になり、仏教による鎮護国家に変化していったように考えることが出来そうです。
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