2019年2月16日土曜日

高市皇子は天皇だったか

 長屋王の変から、日本書紀のことを考えていて、天皇の名前のことを思い出しました。神話で天照大神(実際は持統天皇)を強調するのは、天武天皇の後継としての立場が弱かったことを示しているように思えます。天武天皇亡き後も書き換えられているかもしれません。持統天皇とか当然のように考えていましたが、ひょっとして違うかもしれません。元のつく天皇が本当だとすることで、それ以前の怪しい天皇に持統天皇も含まれるということです。持統天皇が実際に天皇ではないとすれば、高市皇子が天皇になります。長屋王もトップの後継者と考えられていたかもしれません。日本書紀で大幅な書き換えが行われて否定されたということです。厳しい統制が行われたことでしょう。その中で、反発する人(淡海三船?)が、天皇の名前で残したのではと想像します。
天皇の系図については、東大寺のところを見てください。
参考記事:東大寺

追記(H310218):実質的に太政大臣では、天皇のような気もしてきました。
日本書紀からの年表
六七九年(天武八)五月、吉野の盟約
   吉野宮に行幸。天皇、皇后と草壁。大津・高市らの皇子に詔して、誓わせる。
六八一年(天武一〇)二月、天皇・皇后、律令を定め、法式を改めることを詔する。
   草壁皇子を皇太子に立てる。
六八五年(天武一四)一月爵位の号を改める。
   草壁皇子尊に浄広壱位、大津皇子に浄大弐位、高市皇子に浄広弐位、・・・
六八六年(朱鳥一)九月天皇崩御、皇后称制。大津皇子謀反。
六八八年(持統二)十一月天武天皇を大内陵に葬る。
六八九年(持統三)四月、皇太子草壁皇子薨ずる。
六九〇年(持統四)一月、皇后即位する。高市皇子を太政大臣とす。
六九三年(持統七)一月、浄広壱を高市皇子に賜う。
六九五年(持統九)一月、浄広弐を舎人皇子授ける。
六九六年(持統一〇)七月、高市皇子薨ずる。
六九七年(持統一一)八月、天皇、皇太子軽皇子(文武天皇)に譲位する。
七〇二年(大宝二)持統上皇没
(七〇七年(慶雲四)文武天皇没)

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