2019年2月15日金曜日

地域王国と奈良県に残る地名

 天武天皇の時代に日本の統一が図られてきたということですが、最初の飛鳥浄御原宮から始まり、持統天皇の藤原京へと拡大していく中で、各地の地域王国がヤマトに組み込まれていきます。その中で、それぞれの地域とヤマトを結ぶために五畿七道のようなものが造られます。道中は良いのですが、ヤマトに辿り着いたときに宿泊の設備とかは各地域王国の負担になったのではないかと想像します。各地域がヤマトで食料などを必要なものを自給することが求められたということです。ヤマトの領域内に食料の生産や宿泊の施設となる拠点が求められ、これが奈良県に旧国名の地名が残る理由になるように思います。各地域の出先機関のようなものです。
 天武天皇の時代、まだまだ中央集権体制が確立していなかったということで辻褄があってきます。イメージとしては江戸時代の参勤交代で、江戸に各藩の屋敷があったのと同じではないかということです。徳川家康もこの時代のことを知ってたのかはわかりませんが。
奈良、旧国名地名もご覧ください。

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