まず古代寺院の伽藍配置です。古い本を見ていても、新しい発掘成果が反映されて無さそうです。そこで、「わが国古代寺院の伽藍配置、森郁夫」を見て考えます。
伽藍とは、「七世紀代には南門・中門・金堂。塔・講堂の数や位置、回廊のとりつく建物などから七つほどの形が基本的なものとして考えられる。すなわち、それらは飛鳥寺・川原寺・山田寺・四天王寺・法隆寺・法起寺・薬師寺などの寺の標識名とする配置形態である。そして八世紀に入り大安寺式が加わる。」とのことです。この伽藍配置の説明は省きますが、「大きな流れとしては、四天王寺式(山田寺式)→法隆寺式(法起寺式)→薬師寺式そして八世紀の大安寺式という変遷のあっったことが知られる。」ということです。諸説の紹介がされ、関口欣也氏の説で「飛鳥時代の伽藍配置に限っているが、ほとんど外国の影響を受けたことを説く。四天王寺や山田寺のような塔を第一義とする形態は百済扶余・北魏・西域の寺(寺名は省略)などと共通する。そして川原寺や法隆寺のような伽藍配置は「礼仏中心に変貌した初唐伽藍へ移行する間の過渡期の所産とする。さらに回廊によって塔・金堂を講堂や僧坊から区分する形は北魏の寺やホータン王新寺(私には不明)に準ずるといった考え方である。」ということです。仏教公伝と言われますが、統一的に日本に入ってきたものではなく、当時の日本は一体ではなく、地域王国の時代であって、それぞれの地域が勝手に導入したので、多様な伽藍形式が生まれたと考えられます。それぞれの地域王国がヤマトにまとめられていく段階で仏教が日本に入ってきたとして矛盾はないか今後の課題になります。
ここで飛鳥寺の伽藍配置ですが、特殊で他に例がないようです。日本史リブレット17、古代寺院の成立と展開の飛鳥寺のところを見ていてアレッと思いました。書紀によれば、
・五九〇年(崇峻三)、山に入り寺の材をとる。
・五九二年(崇峻五)、仏堂(金堂)と歩廊(回廊)を立てる。
・五九三年(推古元)、仏舎利を刹中《さっちゅう》の礎中《そちゅう》に置き、刹中を建てる。
という流れです。
さて飛鳥寺の伽藍配置です。前記論文から持ってきました。
図を見ると建設の順番がしっくりきません。塔は最初に建てないと工事がやりにくくなります。同じく前記論文の薬師寺の伽藍配置を示しますが、こちらの方が余裕があります。
書紀は薬師寺の伽藍の配置のイメージを持ってきているように見えます。書紀の飛鳥寺の記事は信用できるのかと思います(他は信用できるということではありません)。飛鳥寺式は例外とするのが現時点では良いのかもしれません。
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