2019年2月22日金曜日

白鳳

 白鳳文化とかで使用される「白鳳」です。七世紀半ばより平城京遷都七一〇年までの時代に相当しますが、時代区分では使われないようです。

 日本書紀、孝徳天皇の治世で用いられた「白雉」の別称とのことです。記録上、続日本紀神亀元年十月一日条、「白鳳以来、朱雀以前」とあり、白鳳→白雉、朱雀→朱鳥と考えられるようです。しかし藤氏家伝には白鳳十六年があり、扶桑略記の天武二年三月条に白鳳は十四年続いたということです。(坂本太郎「白鳳朱雀年代考」では信憑性は注意が必要であるとのこと)
(この部分、平成二十七年開催の白鳳展図録より)

 日本書紀にはこのような年号はなく、白鳳があったとすれば、私年号のようなものになるようです。ウィキペディアによれば、
「私年号とは当時の王朝に対する反対勢力や批判勢力によって使用されたものが多く、使用期間は概して短い」
ということで、キビの勢力とヤマトの勢力の対立があれば、二つの年号があってもおかしくありません。南北朝の時代のイメージです。どうだかなというようなことを言っていますが、日本書紀では、
孝徳天皇の時代の「大化」があり、続いて「白雉」になります。
白雉四年に中大兄皇子と孝徳天皇の対立があり、中大兄皇子らは飛鳥に戻ります。
白雉五年に、孝徳天皇崩御、斉明天皇になります。
斉明天皇七年に、百済応援のため九州まで遠征し、朝倉宮で崩御、
    皇太子の中大兄皇子が政務をとります。
天智二年には唐や新羅と戦い、白村江での敗戦を迎えます。
 日本書紀では、大化・白雉が孝徳天皇で、そのあと、元号がなく、天皇名で年が表されています。天武天皇の時、朱鳥となりますが、文武天皇の時代の大宝まで無いようです。元号がこの期間に無いのはどういうことだろうということですが、分裂していた時代(この戦いでは戦うグループ(天智天皇派)と、非戦のグループ(孝徳天皇派)に日本の中が分裂していたように妄想します)を書紀は反映していると感じます。
 寺の伽藍配置がいろいろなタイプがあるのと同じで、図録掲載の白鳳仏を見ても、統一感は感じません。童子のようなお顔は共通するように思えますが、身につけているものなど多様で、これも複数のルートから複数の地域王国のようなところに到来したように思えます。この時代、まだ日本は統一されてはいなかったと考える方が、矛盾はなさそうな気がします。

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