2019年2月7日木曜日

聖武天皇と地域王国

 地域王国が残っていたかもしれないということで、宇佐八幡宮が気になっています。
天平12年(740年)の藤原広嗣の乱の際には、官軍の大将軍の大野東人が決戦前に戦勝を祈願した。また、天平15年(743年)の東大寺造営の際に宮司等が託宣を携えて上京し、造営を支援したことから中央との結びつきを強めた。そして神護景雲3年(769年)の宇佐八幡宮神託事件では皇位の継承まで関与するなど、伊勢神宮を凌ぐ程の皇室の宗廟として崇拝の対象となり繁栄し、信仰を集めた。
とのことです。
 九州関連を年表的に見ていきます。日本古代史年表、上、篠山晴生編、東京堂出版です。
729年(天平元年)長屋王の変
737年(天平九年)藤原四兄弟没す。
740年(天平十二年)9月藤原広嗣の乱、九州で挙兵。
          同年10月聖武天皇は伊勢へ行幸
          同年11月広嗣斬首を報告
742年(天平十四年)太宰府を廃す。
743年(天平十五年)筑紫に鎮西府を置く。
745年(天平十七年)太宰府を復置。
          同年11月玄坊(道鏡みたいな人?)を筑紫観世音寺に配す。
749年(天平感宝元年・天平勝宝元年)宇佐八幡、託宣・入京(大仏造立を願う)
752年(天平勝宝三年)大仏開眼
754年(天平勝宝六年)託宣・入京した大神杜女と多麻呂を除名
755年(天平勝宝七年)八幡大神託宣(先に受けた封戸・位田を変換する処理?)
756年(天平勝宝八年)聖武天皇崩御。
細かいところは読める年表[決定版]、自由国民社発行も見ています。偏見のある年表だとは思います。
 一方聖武天皇の彷徨というのが、この決定版にあります。
740年10月伊勢へ行幸、12月に恭仁京に遷都
742年紫香楽へ何度も行幸
743年恭仁京の造営工事の中止
744年定都を問う。難波京への行幸、遷都?
745年9月平城京に遷宮
 聖武天皇の動きが良くわかりにくいですが、藤原広嗣の乱はおそらく筑紫の在地の勢力のツクシ王国の感覚が残っていたのと、当時の新羅に対して、緊張関係を意識していた広嗣が結びついたことにあったからではと思います。八世紀ですが、まだ筑紫が地域王国であるとの意識が残っていて、聖武天皇が藤原広嗣の乱に過敏に反応したのではないように思います。太宰府の廃止や復活、それに続く宇佐八幡の託宣も関連しているように思えます。後の道鏡皇位事件の託宣も、古いツクシ王国からの重要なメッセージと受け取られていたかもしれません。奈良時代も統一が完成されたのではなく、まだまだ不安定な時代で各地に国分寺・国分尼寺を造って統一させようという時代であった気がします。
 長屋王の変も私にはまだ良くわかっていませんが、当時のクーデター的な要素を感じます。イメージとしては乙巳の変を思い浮かべます。これも、一瞬、長屋王の変のモデルかと思ってしまいました。日本書紀のできた時代の後なので、合っていませんが。聖武天皇には長屋王の変が衝撃的であったと想像できるようになりました。
仕込杖のことです。不安定な時代であったろうことは間違いないと思われます。

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