2019年2月5日火曜日

壬申の乱の時の吉備

 大海人皇子(大皇弟)が東国に入り、それに対し、近江朝廷は各地に使いを派遣します。筑紫と吉備についての対応です。佐伯連男《さえきのむらじおとこ》を筑紫に遣わし、樟使主磐手《くすのおみいわて》を吉備国に遣わし、兵を起こさせようとした。「そもそも筑紫太宰《つくしのおおみこもち》栗隅王《くるくまおう》と吉備国守《きびのくにのかみ》当摩公広島《たぎまのきみひろしま》と二人は、もともと大皇弟に付き従っていた。背くようなことがあるかもしれない。もし背反する表情が見えたら殺せ」と仰せられた。磐手は広島を殺したのに対し、男は海外の防備の必要性を説得され戻っています。筑紫は中立であったということですが、吉備はどうなのだろうかと思います。吉備が天武天皇側について戦ったとはありません。多分、吉備も筑紫も無関係であったと思われます。磐手が広島を殺して、それで終りで済むようには思われません。後の時代ですが、元寇で最初の文永の役の後に、元から来た使を問答無用で鎌倉幕府は斬首に処しています。普通に考えれば、2回目の弘安の役は起こって当然な状況になります。これと同じで、吉備国守が殺されたことが、ヤマトとキビの対立を示しているように思われます。壬申の乱が終わった後、新羅の客金押実らを筑紫で饗応しているようです。その後も、吉備国について日本書紀では書かれていません。筑紫については記述があります。天武天皇八年に、吉備太宰の石川王が病気で薨じたと出てきます。天武天皇十一年年に信濃国と吉備国がそろって不作であったとあります。天武天皇十三年に姓《かばね》を与えて朝臣《あそみ》といったと出てきます。ようやく天武天皇の時代が落ち着いてきた感じがします。それまでは日本書紀に出てくる国名などが偏りがあり、天武天皇の最初の頃は、キビとヤマトの対立があったことが隠されているように思われて、七世紀後半に対立があったとして良さそうに思われます。

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